1970年代に米国に駐在したことは、本シリーズ23話、「アメリカン」で触れたとおりです。在勤したのはニューヨーク市マンハッタン区内のオフィスで、70年1月初めから76年6月末までの6年半ほどでした。この間、米国では様々な歴史的事件や社会的変化が起きました。身近なところから振り返ると、70年初めのころのニューヨークは治安が悪かったです。エレーベータ内でナイフを突きつけられ、お金を要求されたとか、小物を盗まれたなどの話をよく聞きました。特に最初に勤務したウォール街近辺は、そうした事件が多発していたようでした。着任そうそう、強請られたら抵抗せずにすぐに現金を渡すこと、そのために常に小金を用意しておくなどの忠告を受けたものでした。私自身も、通勤列車内で頭上の網棚に外套とマフラーを置いて新聞を読んでいたところ、発車間際に慌てて外套をはおりながら列車から飛び降りていった若者がいて、なんと不用意なことだと思っていたら、自分が降りる段になって、頭の上の外套、マフラーが消えていたという被害にあったことがありました。
数年後、マンハッタン中央部にあるミッド・タウンと呼ばれる地区へ転勤しました。オフィフスはウォルドーフ・アストリアという名門ホテル内にありました。このホテルの上層階は、住宅用レジデンスになっており、日本から引き揚げてきた元連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥夫妻の終の棲家となり、ハリウッド・スターのエリザベス・テイラーなどの著名人たちが定住し、時の大統領ニクソンも、かつて定宿としていたといわれていました。デザイナーとして国際的に名を馳せていた森英恵さんもホテル・ロビーの一角に事務所を設けていました。時折通りかかりましたが、カーテンが引かれ、中は見えませんでしたが、人影が絶えず、人の出入りが盛んなようにみえました。
私自身も、こんな経験をしました。ある夕方、残業の必要があったために腹ごしらえをしようと、オフィスを出て歩き出した時です。ホテルの別の出口から、はっと目を引く熟年女性が突如、目の前に現れました。夕暮れ時ですが、目を凝らすと、どこかで会った女性のように思えました。目元に妖艶さを湛えた往年の名女優、エヴァ・ガードナーさんであることがすぐにわかりました。50歳代の初め頃だったはずですが、昔見た映画「裸足の伯爵夫人」で披露した、往年の魅力は全く変わっていません。人目につきにくい夕暮れ時に、外気に触れるために、高層のレジデンスから抜け出してきたのでしょう。大きく息をして周囲を見渡すと、薄暮の街へひっそりと歩き出しました。声をかける暇もなく、消え去る姿を見送ったことを覚えています。
また、こんな経験もしました。昼食を取ろうと、レストランが立ち並ぶレキシントン街に面するホテルの出口に向かった時でした。どことなく騒めいています。人が多くて、なかなか外へ出られません。近くの人に尋ねると、映画のロケが行われていたといいます。そうこうしているうちに、中年の女性が、こちらに向かってふらふらと近づいてきました。すると、「ミス・メルクーリ、そちらではありません」と、お付きと思われる人の甲高い声が聞こえました。すると女性は、夢遊病者が指図を受けたように、くるりと向きを変えて、声の主の方へ歩き出しました。その方向、つまり出口に向かって目をやった時でした。別の中年女性が回転ドアーを颯爽と通り抜け、レキシントン街へと姿を消していきました。その顔を見て、驚きました。昔、ハリウッド映画で見たことのある女優、アレクシス・スミスさんです。目の前にふらふらと表れたのは、まさしくメリナ・メルクーリさんだったのです。後で調べたのですが、ロケの映画は1975年に公開された「いくたびか美しく燃え(原題:Once Is Not Enough)」だったようです。因みに、英語版ウィキペディアに、こんな解説がありました。「The historic Waldorf Astoria New York hotel served as a filming location for the 1975 drama movie Once Is Not Enough, featuring a memorable scene where characters played by Melina Mercouri and Alexis Smith share a rendezvous.」
70年代は、米国経済が歴史的転換期を迎えた時期でした。第2次世界大戦の敗戦国である日本やドイツが経済で復興を果たし、街には日本製の家電製品が溢れ始め、日本車も見かけるようになっていました。他方、米国はベトナム戦争などで国力を消耗し、貿易と財政の双子の赤字に苦しみ、国を象徴する通貨、米ドルへの信認が揺らぎ始めていました。そうしたなか、ニクソン・ショックと称された衝撃的事件が起きました。次回は、ウォルドーフ・アストリア・オフィス時代に体験したそうした出来事のいくつかについて記憶をさかのぼってみます。
前田 高昭
金融 翻訳 ジャーナリスト
バベル翻訳専門職大学院 国際金融翻訳(英日)講座 教授
現在、The Professional Translatorのコラムに『英文メディアを日本語で読む』と『東アジア・ニュースレター』を毎月寄稿。
