廊下の奥は真っ暗でよくみえない。眠い目をこすりながら、ゆっくりと進む。夏の夜、蚊帳から抜け出し、厠(かわや)に向かっているのだ。昼間は遊び回っている場所だが、深夜になると厠の先に巣食っている妖怪や幽霊が出てきて、体の弱った無力な老人や幼い子供たちを襲い、頭から食べてしまうという。なんと恐ろしく、怖い話だろう、しかし、厠には行かないわけにいかない。勇気を出せ、と励ましながら、きしむ廊下を忍び足で何とか前に進んでいくと突然、一陣の風が雨戸にドーンと吹き付けてきて、白いふわふわした物体が目の前に現れた。すわ、妖怪か、と身構えた途端、目が覚めました。昼は遊び場だが、深夜は真っ暗で恐ろしい場所と化したのは、疎開先の古い民家の薄暗い廊下のことでした。そこは家の奥深くに設けられていた厠に至る唯一の通路でした。子供心には、その暗闇の先は、それは、それは怖いお化けや幽霊の巣のように思われました。今でも時々うなされて飛び起きるのです。その夜も一度は目を覚ましたのですが、深夜のことです。すぐに、まどろみ始めました。

やがて、身の回りに分けのわからぬものが、ゆらゆらと白い霧のように立ち上がっているのを感じました。湯けむりのようで、なんだか体も暑い。汗でぐっしょり濡れているようです。しかし、汗とは違うようにも思える。何のことはない。湯ぶねにつかっていたのです。近所の友達と連れ立って銭湯にきていました。風呂場には、自分たちよりもかなり年上の男子が数人、口も聞かずじっと湯に入っている。久しぶりに浮世のお湯を楽しんでいる風情で、湯から出るとカーキ色の制服を身につけたことから、若い兵士であることが分かりました。そのうちの二人が、ゲートルを巻かずに手に持って外へ出て行きました。ゲートルは、ズボンの脛の部分に巻いて裾を押さえ、脚を障害物やうっ血、疲労などから守り、兵士は必ず着用しなければならないとされていました。しかし、兵士は風呂上がりで気が緩んでいたと思われます。幼い子供にとって、カーキ色の軍服はかっこよくみえ、早速、その兵隊さんの後を追いました。

外に出て数分後のことです。おい、待て、と鋭い声が聞こえました。厳しい目つきの将校らしい中年の人物が若い兵隊に声をかけてきたのです。お前ら、どこの所属か、ゲートルをまいておらんではないか、たるんどる、こっちへ来い、いうと若い兵士二人の先頭に立って歩きだしました。当然のことのように、私たちもその後についていきました。その上官とおぼしき将校は、とある路地に差し掛かると、再び、こっちへ来い、と言って二人を整列させました。そして、やおら、彼らの頬を拳骨で殴り始めたのです。二人は殴られ、よろけると直ぐに体勢を整えて並び、再び殴られています。中年将校は、子供がみていることなど眼中にありません。ひたすら軍紀を守ることに専念しています。そこで夢は途切れました。そして、再び眠りに落ちました。次の夢はこうです。

廊下の上に正座している自分がいます。つまり、廊下の上に膝を曲げて座っています。どうやら疎開先の学校での出来事のようです。座らされているのは、自分だけではありません。十数人が一列に並んで硬い木の廊下の上に正座させられています。教室から木刀を手にした先生が出てきました。これからお国の方針に従って、君たちに連帯責任をとってもらう。諸君らの中の一人が、不埒なことをした。一人がそうした行為をした場合、全員が連帯して責任を取るのだ。そのためにまず、諸君全員に廊下に正座してもらい、しばし反省の時間を与えた。これから制裁をする。そう言って先生は手にした木刀を、端に座った生徒の頭の上にかざしました。およそ頭上30センチ余りの高さです。そして、木刀をそのまま落下させたのです。以後、順番に木刀を正座した生徒の頭の上にかざし落下させていきました。いよいよ私の番が来ました。衝撃に備えて目を固く閉じようとした瞬間、目があきました。

疎開先の民家や学校といえば、以前、疎開先で村の学童たちにいじめられた話を書きました。本シリーズの第4話「疎開」です。しかし、疎開は不快で苦しい話ばかりではありません。その一つに、立秋といってもまだ暑い夏の日に近所の神社で催される村祭りがありました。村を守り、秋の豊作を約束してくれる鎮守の神様のためのお祭りです。その日は朝早くから鐘や太鼓、そして笛の音が賑やかに聞こえてきます。そして村は総出の大祭となります。夜には夜店が出て、骨とう品や手作りの工芸品、それにお菓子や飲み物などが並び目を楽しませてくれます。私も兄姉妹、それに近所に住む親類の子供らと揃って出かけたものでした。この日ばかりは、意地悪な苛めっ子たちも神妙に祭りを楽しんでいました。ある休日の朝のことです。どこからか笛、太鼓の音がかすかに流れてきました。夢か現か、はっきりしません。早起きの家のテレビから漏れてきたのかもしれません。ぼんやりとした頭で聞いていると、どうやら、小学唱歌の「村祭り」の一節のようです。「村の鎮守の神様の 今日はめでたいお祭り日」といった歌声に続き、ドンドンヒャララ ドンヒャララ、ドンドンヒャララ ドンヒャララと聞こえてきます。なんとも心休まる音色です。そのまま、とろとろと深い眠りに落ち入ってゆきました。

ライタープロフィール

前田 高昭
金融 翻訳 ジャーナリスト
バベル翻訳専門職大学院 国際金融翻訳(英日)講座 教授
現在、The Professional Translatorのコラムに『英文メディアで読む』と『東アジア・ニュースレター』を毎月寄稿。

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