三年かけて書いた長編の締切日の夜。作家の羽鳥紗英は、完成稿を自分の手で編集者・佐伯真紀に渡すと約束していた。だが、午後八時を過ぎても彼女は現れない。電話もつながらない。やがて真紀のもとに届いたのは、待っていたものとは少し違う白い封筒だった。「約束を守る」とは何かを、現代の仕事と信義の中に問い直す物語。

午後六時を過ぎても、羽鳥紗英から連絡はなかった。
佐伯真紀は、机の端に置いた紙袋を見た。
小さな瓶の白ワインと、駅前で買ったチーズが入っている。
大げさに祝うつもりはなかった。原稿を受け取ったところで、本になるまでにはまだ何度も直すことになる。
それでも、三年かかった長編だった。
一か月前、打ち合わせを終えた羽鳥が言った。
「最後の一枚まで書けたら、私が持っていきます」
「いつものようにメールでいいでしょう」
「完成稿だけは、直接渡したいんです」
「どうして」
羽鳥は少し考えた。
「佐伯さんに最初に読んでもらいたいから」
それだけだった。
締切は今日の午後八時。
真紀はパソコンの画面に戻った。
受信トレイに新着が一件あった。
別の作家からだった。
閉じる。
六時二十分。
六時四十三分。
七時を過ぎたころ、向かいの席の若い編集者が鞄を持って立ち上がった。
「佐伯さん、まだ待つんですか」
「うん」
「羽鳥さん?」
真紀はうなずいた。
「締切、今日でしたよね」
「来るって言ってるから」
若い編集者は何か言いかけて、やめた。
「お先に失礼します」
「お疲れさま」
エレベーターの扉が閉まる音がした。
編集部が少し広くなった。

羽鳥と最初に会ったのは六年前だった。
まだ一冊も本を出していなかった頃だ。
新人賞の最終候補に残った彼女の原稿について、選考委員の一人から疑問が出た。
それは地方の古い団地を舞台にした作品だった。
建て替えをめぐる住民の対立、認知症の母親を抱えた家族、ベランダに置かれた赤い椅子。
細部まで妙に具体的だった。
「これ、本当に取材したんですかね」
誰かが言った。
真紀は羽鳥に電話した。
「この小説を書くために、何を調べました?」
電話の向こうで、しばらく沈黙があった。
「それ、疑われてるってことですか」
「確認したいんです」
翌日、羽鳥は段ボール箱を抱えて出版社へ来た。
大学ノートが十一冊入っていた。
団地を歩いた日付、住民から聞いた話、間取り、写真を見て書いたメモ、人物を作るために書き直したページ。
真紀は三日かけて全部読んだ。
編集長に資料を並べた。
「これだけ調べて書いています」
「そこまで読んだの?」
「疑うなら、そこまで確認しないと駄目でしょう」
結局、新人賞は取れなかった。
だが翌年、その原稿を大幅に改稿して出版した。
七千部から始まった本は重版となった。
二作目、三作目と出すうちに、羽鳥の名前は知られるようになる。
あのときのことを、二人が話すことはほとんどなかった。
一度だけ、打ち合わせの帰りに羽鳥が尋ねた。
「佐伯さん、あのとき私のこと、信じてくれてたんですか」
真紀は少し考えた。
「あなたじゃなくて、ノートを信じたの」
羽鳥は笑った。
「そういうことにしておきます」
それから先、その話は出なかった。

七時十五分。
真紀は羽鳥に電話した。
呼び出し音が続き、留守番電話に切り替わった。
メッセージは残さなかった。
チャットには、午後二時に送った文面がある。
〈今夜、待っています。気をつけて来てください〉
既読はついていない。
真紀は紙袋から白ワインを取り出し、給湯室の冷蔵庫に入れた。
戻る途中、窓の外を見た。
向かいのビルには、まだいくつもの明かりがついている。
七時四十五分。
羽鳥は遅刻をしたことがない。
真紀はスマートフォンを手に取った。
事故。
急病。
電車の遅れ。
運行情報を開いた。
大きな乱れはなかった。
八時になった。
原稿は来ない。
連絡もない。
編集長からメッセージが入った。

(以下略)

全文はこちら⇒https://note.com/kumazo55/n/nee13050ce0f2?sub_rt=share_pb


創作者名(ペンネーム)芹井磐徹
原典情報

「菊花の約」上田秋成(収録:『雨月物語』)
https://www.koten.net/ugetsu/gen/120/

ジャンル:西洋文学

原典引用

青々たる春の柳、家園に種うることなかれ。交は軽薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐へめや。軽薄の人は交りやすくして亦速なり。楊柳いくたび春に染むれども、軽薄の人は絶えて訪ふ日なし。
播磨の国加古の駅に丈部左門といふ博士あり。清貧をあまなひて、友とする書の外はすべて調度の絮煩しきを厭ふ。老母あり。孟氏の操にゆづらず、常に紡績を事として左門がこころざしを助く。其妹女なるものは同じ里の佐用氏に養はる。此佐用が家は頗る富み栄えて有りけるが、丈部母子の賢きを慕ひ、娘子を娶りて親族となり、屡事に託せて物を餉るといへども、「口腹の為に人を累はさんや」とて敢て承くることなし。

創作メモ

原典「菊花の約」が描く「約束を守るために、相手のもとへ行く」という関係の強さを核として保持した。舞台を現代の出版社に移し、友情と信義を、作家と編集者の「読むこと」「確かめること」という倫理へ置き換えた。原典の怪異性は使わず、「来るはずの人が来ない夜」の緊張と、その不在が残す決断を現代的に再構成した。

トーン・文体:現代語調
語り手

三人称限定視点。出版社の編集者・佐伯真紀の知覚と判断に寄り添い、羽鳥紗英が何を考え、なぜ来ないのかは、真紀が届いた文書や記録を読むまで明かさない。読者も真紀と同じ順序で事実を知ることで、「待つ夜」の不安から、真紀自身の倫理的な選択へと移っていく構成とした。

AI補助使用:使用した

・使用目的(構成案の整理、語調統一、時代背景の調整

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