AIリテラシーを高めよう
――AI時代の「翻訳の地頭」を鍛えるために

1回 AI時代の「翻訳の地頭」とは何か
―AIリテラシーは、翻訳者の判断力を鍛えることである

AIが自然な訳文を出す時代に、翻訳者にはどのような力が求められるのでしょうか。

いまやAIは、英文を自然な日本語に整え、語順を組み替え、主語を補い、複数の訳文案まで提示します。以前なら翻訳者が時間をかけて行っていた作業の一部を、AIは短時間で、しかもかなり流暢にこなすようになりました。

では、AI時代に翻訳者が鍛えるべき力とは何でしょうか。

本連載では、これをAI時代の「翻訳の地頭」と呼びます。

ここでいう「翻訳の地頭」とは、単に原文を別の言語へ置き換える力ではありません。原文を深く読み、AIを含む複数の訳案を比較し、目的に最も適した訳文を選び、その選択を根拠とともに説明できる総合的な判断力のことです。

つまり、翻訳者にとってのAIリテラシーとは、AIを操作する技術だけではありません。AIの出力を読み、疑い、比較し、検証し、ときには問いそのものを組み替えながら、よりよい訳をAIとともに探り、最終的な選択に責任を持つ力です。AIの訳文は、しばしば自然に見えます。ぎこちない訳であれば、読み手はすぐに違和感を持ちます。しかし、AIの訳文は文法的に整い、語調もなめらかです。そのため、意味のずれ、論理のずれ、文体の平板化、事実誤認が、自然な文章の中に紛れ込んでしまうことがあります。

たとえば、次のような英語文があるとします。

That was generous of him.

これをAIが「彼は気前がよかった」と訳したとします。一見、問題のない訳に見えます。辞書的にも、generous は「寛大な」「気前のよい」という意味です。

しかし、この一文が、相手の行為に不満を抱いた人物の皮肉として発せられていたらどうでしょうか?

その場合、「彼は気前がよかった」では、発言の働きがずれてしまいます。文脈によっては、「頼んでもいないのに、お節介なことだね」といった皮肉を含む訳や、「よくもまあ、そんな虫のいいことが言えたものだ」といった処理が必要になるかもしれません。

ここで問題になるのは、単語の意味だけではありません。話者は本当に褒めているのか。皮肉を言っているのか。相手との関係はどうか。前の場面で何が起きていたのか。その一文は作品全体の中でどのような感情を担っているのか。

AIが出した訳文が自然であっても、それが正しいとは限らないのです。

もちろん、従来の翻訳者も、意味、文体、文化、読者を考えてきました。したがって、AI時代になって初めて高度な読解が必要になったわけではありません。優れた翻訳者は、以前から原文を深く読み、複数の可能性を考え、文体と読者を意識して訳してきました。

ただし、AI時代には、そうした力の重要性がよりはっきり見えるようになりました。

かつては、訳文を作る過程そのものの中で、翻訳者は構造を考え、意味を選び、文体を調整していました。しかしAIを使う場合、訳文は先に出てきます。すると翻訳者には、訳文を作る力に加えて、その訳文が本当に原文にふさわしいかを評価し、選択する力が求められます。

「どう訳すか」は、今も重要です。
しかしAI時代には、それに加えて、「何を読み取り、何を選び、なぜそれを選ぶのか」が、これまで以上に問われます。

そのために必要な力を、本連載では以下の10の要素に整理し、掘り下げていきます。

  1. 構造把握力
  2. 意味解釈力
  3. 語用論的読解力
  4. 論理分析力
  5. 文体識別力
  6. 全体構成把握力
  7. 比較選択力
  8. 調査・検証力
  9. 翻訳設計力
  10. 倫理・責任判断力

ただし、これらの10項目をばらばらに覚える必要はありません。大きく分ければ、次の四つの力になります。

第一は、読む力です。
文法・構文・係り受けを捉える構造把握力。文脈上の意味、含意、前提、曖昧さを読み分ける意味解釈力。発言の意図、人物関係、皮肉や婉曲を読む語用論的読解力。さらに、因果、条件、根拠、結論、対比、逆接、事実と推測の関係を捉える論理分析力です。AIの訳文を評価するには、翻訳者自身がまず原文を読めていなければなりません。

第二は、文体と全体を見る力です。
語り口、リズム、視点、声、文章の質感を捉える文体識別力。そして、一文を作品や文書全体の中に位置づける全体構成把握力です。AIは、原文の粗さ、間、省略、言い淀み、反復を、一般的に読みやすい文章へと均してしまうことがあります。しかし、その読みにくさや不自然さに意味がある場合、それを勝手に整えれば、作品の質感を損ないます。

第三は、比べて設計する力です。
AIは複数の訳案を出すことができます。だからこそ、翻訳者には、それらを比較し、根拠をもって選ぶ比較選択力が求められます。同時に、誰が読むのか、何のために読むのか、媒体は何か、どの文体で届けるのかを決める翻訳設計力も必要です。「よい訳」は一つではありません。読者、目的、媒体によって、ふさわしい訳は変わります。

第四は、検証し、責任を持つ力です。
AIは、固有名詞、年代、引用、専門用語、制度、地理的情報などを誤ることがあります。そこで必要になるのが、一次資料や専門資料、信頼できる情報源で確認する調査・検証力です。また、未公開原稿をAIに入力してよいのか、依頼者との契約に反しないか、著作権や翻訳権に問題はないかを判断する倫理・責任判断力も欠かせません。

これらは、AIに代替されるものではありません。AIを使う時代だからこそ、翻訳者が意識的に鍛えるべき力です。

AIの出力を素材として読み、比較し、検証し、目的に合わせて仕上げることができれば、翻訳者にはより高度な判断が求められます。

AIと競争する必要はありません。
しかし、AIに判断を明け渡してはいけません。
AI
の答えを評価するだけでなく、AIとの対話によって、自分自身の読みや問いも更新していく必要があります。

原文を深く読む。

訳案を比べて選ぶ。

選択の根拠を説明する。

最終成果物に責任を持つ。

この四つを手放さない限り、AIは翻訳者に取って代わるものではなく、翻訳者の判断力を鍛える道具になります。

本連載では、その判断力を、AI時代の「翻訳の地頭」として一つずつ掘り下げていきます。

 

小室誠一:Director of BABEL eTrans Tech Lab
https://www.youtube.com/@eTransTechLab

 

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