初めて米国を訪れたのは1960年代後半のことでした。本シリーズ17話「ラヴィニアの魔術師」で触れたとおり、学生の身分としてでした。その後、70年代に6年半ほど家族同伴でニューヨークに在勤しました。80年代から90年代にかけては、仕事でよく出張しました。出張先は東海岸のニューヨークやボストン、あるいは西海岸のロスアンジェルスやサンフランシスコが多かったです。80年代から90年代は、日本は経済力で米国に追いつき、経済のバブルがはじけた後も米国に伍する勢いがあった時代です。 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などの書物がベストセラーになったりして、米国では日本に対するライバル意識が生まれ、国民一般の対日感情も微妙なものがありました。
例えば、ロスアンジェルスでこんな体験をしたことがあります。ある一夕、日系企業との夕食会があり、その後の2次会でカラオケなどを楽しみ、ホテルに帰る時刻が相当遅くなりました。タクシーに乗り、宿泊先のホテル名を告げ、後ろの席でまどろんでいると、通常は15分程度で着くはずのところが、なかなか到着しません。どうしたのか、と尋ねると、ガソリンを補給する必要があるので、寄り道をするという。ガソ欠では仕方がありません。しかし、ガソリンの補給が終わり、しばらく走ると、今度は気分が悪くなったので、運転を交代してもらうために運転手の待機場に行くというのです。健康上の理由では、これまた仕方がありません。こうしてホテルに辿り着くのに、小一時間もかかったのです。料金は多少割り引きがあったものの、かなりの額になったと記憶しています。
また、こんな経験もしました。出張先のニューヨークで、訪問先との面談を済ませ、一息つこうと街のレストランに飛び込みました。レストランには必ずバーがあります。そこで取り敢えずドライ・マティーニを飲んで、疲れをいやそうと思ったのです。夕刻にかかる時間帯で、すでにバーには何人かの飲ん兵衛(のんべえ)がたむろしています。中年のバーテンダーが、鋭い目でちらりとこちらをみると、やおらシェイカーを振って注文の品を作り始めました。次いで大きなカクテル・グラスを取り出し、シェイカーから、なみなみと注いでくれると思いきや、半分も満たさないまま、目の前に置いたのです。大きなグラスはよかったのですが、肝心の液体がグラスの半分にも達していません。隣の飲ん兵衛の一人が見かねたように、バーテンダーに何か問いただしてくれたようでしたが、お酒の量で争うのは不本意なので、これで結構というと、バーテンダーは、それみたことかと言わんばかりの表情で、注意した飲ん兵衛を見返しました。
しかし、こうしたいやがらせ染みた話ばかりではありません。2000年に入った頃のことです。今度は妻と二人で観光のためにニューヨークを訪れました。マンハッタンの中心部に飛び切り新鮮なオイスターやクラム(二枚貝)が食べられ、そして、何よりも本場のドライ・マティーニが味わえるレストランがありました。淡黄色のテラコッタを鱗形に敷き詰めたアーチ型の天井が、その歴史をしのばせる由緒あるレストランです。その日は時間が早かったためか、客はまばらでした。まずドライ・マティーニを注文する。マティーニを数滴たらした超辛口のオンザロックを口に含むと、冷えたジンの香りが口いっぱい広がる。つまみには近郊のロングアイランドで取れたチェリ-ストーン・クラムが最適だ。このクラムは残念ながら、日本では食せない。ホースラデイッシュにつけて頬張ると、磯の香りと辛味が口中に溢れる。マンハッタン島ならではの醍醐味です。スープもクラム・チャウダー、メイン料理は無論、オイスターです。食事を終えて時計をみると、7時前。夜はまだ長い。コーヒーを飲み、付近を散策してホテルに戻ろう。そう思ってボーイを呼び、コーヒーを二つ、アメリカン、と付け加えました。すると真面目そうな若いボーイは一瞬、戸惑った表情を浮かべ「アメリカン? それは、いかなるコーヒーなりや?」と直訳すれば、そんな質問を返してきました。そうか、ここはアメリカだ。アメリカで飲むコーヒーであれば、みなアメリカンなのだろう。そこで「レギュラー、プリーズ」と言いかえました。ボーイは軽くうなずき、しばらくして持ってきたコーヒーは、味は薄いが、量だけはたっぷり入った、まぎれもないアメリカンでした。
