旅先で家庭教師に間違われた主人公は、ある金持ちの家で歴史を教えることになる。主人公が子供たちに施す謎の教育法「シュルツ=メッタークルム式教育法」とは? 破天荒な主人公と、権威主義の夫人の対決をお楽しみください。

白岡晶は良家の出身だったが、世間でいう「余計なお世話」という言葉がほとんど通用しなかった。その日も、晶はこの性格のせいで、予定を狂わせていた。
山間を縫う単線の列車は、駅での停車時間が長い。そこは深い森と別荘地のあいだに設けられた小さな駅で、晶は発車を待ちながらホームを何度か往復していた。退屈しのぎに駅前へ目を向けると、軽トラックが坂道で立ち往生していた。
晶はためらいなくホームを降りた。
「少し荷物を下ろしましょう」
返事を待たず、肥料袋を二つ道路脇へ運び、後輪の下へ近くの砕石を差し込み、運転手にもハンドルを切る角度を指示する。作業は一分とかからず終わり、軽トラックは何事もなかったように坂を登っていった。礼らしい礼はなかった。
晶が駅へ戻ると、ちょうど列車がゆっくりと動き始めるところだった。
晶は追いかけなかった。発車していく最後尾を見送り、小さく肩をすくめた。
「今日はそういう日ね」
晶は予定が崩れることを災難とは考えなかった。親族や友人もその性質を知っており、「荷物だけ先に着いた」という連絡を受けても驚きはしない。
ちょうど駅前に小さな郵便局があったので、目的地へは電報を送った。LINEやメールではすぐに返信が来るので、その対応に煩わされたくない気分だった。
「一本乗り遅れました。別の列車で向かいます」
何をして時間を潰そうかと考え始めたところで、一人の婦人が歩いてきた。周囲をきょろきょろと見まわしている。四十代半ばほど。生成り色のリネンに、帽子も紫外線除けの手袋もやや場違いと思えるほどの高級品だ。十分に金がかかっているが、それ以上に「こう見られたい」という意思がにじみ出るような装いだった。
婦人と目が合った。晶の姿を頭の先から靴先まで眺め、値踏みするような沈黙を挟んでから言った。
「家庭教師の鈴木先生ですよね。今日からお世話になる花春です」
晶は相手を見返した。身なり、話し方。本人に確認するより先に相手が誰か断定したこと。それだけで、この婦人がどういう人間なのか、おおよその見当はついた。
「ええ」
晶はごく穏やかにうなずいた。
「あなたがそうおっしゃるなら、そうなのでしょう」
花春夫人は、その微妙な返事を肯定と受け取った。
「やっぱり。子供たちも首を長くして待っています。お荷物は?」
「鉄道会社に預けていたのですが、行き違いがあったようです」
嘘ではない。行き違ったのは荷物ではないが。
「まあ、鉄道会社というのは困ったものですね。今夜は使用人の着替えを用意させますから、ご心配なく」
「ありがとうございます」
そう答えながら、晶は夫人の車へ乗り込んだ。新型の高級外車だ。
駅を離れると、道は杉林の間をゆるやかに登っていく。すぐに視界が開け、大きな庭木に囲まれた別荘が点々と姿を現した。
車内で花春夫人は、夏休みを別荘地で過ごすことで子供たちの教育が遅れないよう、最高レベルの家庭教師を紹介してもらったのだと誇らしげに語った。その際に顔写真のデータをもらっていたが、眼鏡をかけた履歴書用写真で見わけがつきにくかったことを遠回しの言葉で非難した。そして子供たちについて説明した。
「長男の衛は少し繊細で」
「はい」
「律は活発ですが集中力が続きません」
「なるほど」
「長女の葵は末っ子のせいか、ちょっと人見知りで……まあ、それぞれ個性がありますの」
晶は相づちだけ打っていた。夫人は満足そうに続けた。
「知識を詰め込む教育はよくありません。例えば歴史なら、実際に生きた人々の物語として興味を持たせてください。暗記だけでは意味がありませんから」
晶は窓の外へ流れる木立を眺めながら答えた。
「それでは、そのように」
花春夫人は安心したように笑みを浮かべた。
「食事の時間も教育の一部ですから、週に四日は英語で話してください。それくらいは当然おできになりますよね?」
「では四日は英語で」
晶は素直にうなずいた。
「残り三日はロシア語にしましょう」
夫人は笑いかけた表情を、そのまま止めた。
「……ロシア語ですか」
「ええ」
「うちにはロシア語を話せる者がおりませんが……」
「何か問題でも?」
夫人は口を開いたが、適当な言葉が見つからず、あやふやに口を閉ざした。

 

花春家の別荘は丘の中腹に建っていた。
夕食には花春氏も同席した。穏やかな人物で、妻の意見へ半拍遅れて賛同することを長年の習慣として身につけているらしかった。
料理が運ばれると、晶は勧められるまま日本酒を口にした。
「よく冷えていますね」
「地元の古い酒蔵の限定品ですの」
花春夫人が誇らしげに言う。
「地主さんからご紹介いただきましたの。来る途中、道路より一段高い場所に、瓦屋根の大きなお屋敷がありましたでしょ? 昔から、この辺り一帯を所有していらっしゃるお家なんですの。主人とも親しくしていただいて」
「それは便利でしょうね」
便利。
羨ましがるでもなくその一語で片付けられ、夫人の自慢話はどこか拍子抜けしたものになった。夫人は空気を換えようと試みたが万事この調子で、夕食が終わる頃には、初めほど流暢に話せなくなっていた。
一方の晶は、食後の茶を飲みながら静かに言った。
「明日は歴史の授業から始めましょう」
夫人は気を取り直したようにうなずく。
「歴史は興味を持たせることが大切ですわ」
「そのつもりです」
晶は湯飲みを置いた。
「私は、シュルツ=メッタークルム式で教えています」
「ええ、はい」
夫婦は、少なくとも名前だけは知っているふりをするのが得策だと判断した。
「昔にあったことを実際に再現しなければ、人は歴史を理解できません」
夫婦はもっともらしくうなずき、晶は静かに微笑んだ。
「明日になれば、お分かりになります」

 

翌朝、花春夫人は子供たちの姿が食堂にないことを、さほど気に留めなかった。コーヒーを飲み終え、庭へ続く廊下を歩いていると、子供たちの声が聞こえた。それは教科書を読む声でもなければ、教師に質問する声でもなかった。
庭へ出ると葵がいた。芝生の端へ正座し、小さなノートを膝へ広げて何かを書き留めている。
「何をしているの?」
「歴史の勉強」
葵が真面目な顔で答えた。
「わたしは記録係だから」
「記録係?」
「誰がどの木を見つけたかを書いてるの」
夫人は意味が分からなかった。
「衛と律は?」
「山へ行ってる」
「山へ?」
「神様の木を探しに」
夫人は聞き返そうとしたが、その前に雑木林の向こうから歓声が上がった。衛と律が駆け下りてくる。二人とも両腕いっぱいに木の枝を抱えていた。まっすぐ走っていく先に晶がいる。
「先生! サクラがありました!」
「こっちはウワミズザクラ!」
晶は枝を一本ずつ受け取り、形を確かめる。
「悪くありません」
そう言って一本を掲げた。
「祭祀に使えそうですね」
子供たちは嬉しそうに顔を見合わせた。昨日まで、歴史を退屈な暗記科目だと思っていた子供たちと同一人物とは思えないほど生き生きしている。夫人だけが、その輪の外に立っていた。
「これは、一体……」
晶が振り向く。
「歴史ですよ」
「木の枝がですか?」
「ええ」
晶は当然のようにうなずいた。
「歴史を教えるなら、まず実際に手で触れることです」
晶は芝生へ小石を並べ始めた。
「ここが祭場」
さらに枝で円を描く。
「先ほどの枝を使って、ここで火を起こします」
「火?」
衛が手を挙げた。
「どうやって火を起こすんですか?」
「昔の人のやり方です」
そう言って用意していた木の板と杭を示す。
「木を使って火を起こします」
花春夫人はようやく我に返った。
「火を起こすつもりなんですか!」
「ええ」
「庭で?」
「せっかくの広い庭ですから」
「そういう問題ではありません!」
晶は少し考えた。
「では芝生ではなく土の上にしましょう」
「そうではなく!」
そのとき、律が挙手した。
「先生、骨は?」
「ああ、そうでした。そろそろ届く頃ですね」
「届く?」
「近所のレストランです」
花春夫人の胸に、不吉な予感が芽生えた。
「何を頼んだんです」
「鹿の骨です」
夫人は沈黙した。
「……鹿の」
「ええ」
「骨」
「卜骨占いをやるには必要ですから」
「何をおっしゃっているのです!」
「邪馬台国では鹿の骨を焼いて占いをしたと言われています」
晶は穏やかだった。
「歴史というものは、出来事を時系列で暗記すればいいというものではありません。人々が何を信じ、どう判断し、どんな道具を使っていたかまで再現して初めて理解できます」
門の向こうから軽トラックが入ってきた。近所のジビエレストランの主人だ。荷台には段ボールの箱が一つ載っている。
「先生、言われたものを持ってきましたよ」
「ありがとうございます」
晶は箱を受け取り、中を確認した。
「見事ですね」
子供たちも背伸びしてのぞき込む。
「本物だ!」
「先生、これ割るんですか!」
「さっき言っていた通り火にかけます。卜骨占いはそういうものですから」
晶は骨を手に取った。
「今日はこのいただいた骨を使いますが、明日は自分たちで鹿を狩りますよ」
「どうやって?」
「もちろん、当時の道具を使ってです。弓矢や落とし穴が必要ですね。午後からはその作成をしましょうか」
「先生、わたしも参加していいですか?」
葵がおずおずと挙手する。
「もちろんです」
晶は満足げにうなずいた。
「ようやく、シュルツ=メッタークルム式教育法らしくなってきました」
「もう結構!」
庭中へ響く声だった。花春夫人に全員の視線が集まる。
「もう十分です。あなたには今日中に、この家を出ていただきます」
一瞬の沈黙の後、晶はうなずいた。
「承知しました」
その返事はあまりにも静かで、花春夫人は拍子抜けした。夫人は、なおも自分の怒りを維持しようとした。
「教育というものは、常識の範囲で行われるべきです」
「かもしれません」
「庭で火を起こすなど」
「土の上です」
「子供たちを山へ行かせるなど」
「敷地の中です」
「まして生きた鹿を狩らせるなど!」
「何か問題でも?」
晶は帽子を手に取った。
「荷物ですが」
「届き次第、お送りいたします。送り先をご連絡ください」
「わかりました」
まるで昨日借りた本でも返してもらう相談のような穏やかな会話だった。
「そうそう」
門を出かけた晶が振り返った。
「荷物の中にペットの蛇がいます」
花春夫人は瞬きを忘れた。
「……蛇?」
「グリーンパイソンです」
「ヘビ!」
「ええ」
「そんなものを飼っているんですか!」
夫人は後ずさった。晶は続ける。
「二、三日お預かりいただくくらいなら大丈夫でしょう」
「お預かりしません!」
「そうですか」
晶は少し残念そうに言った。
「では、早めに送り先をお知らせします」
それだけ言うと、彼女は門の外へ歩き始めた。
すれ違いに一台のタクシーが別荘へ入ってきた。降りてきたのは晶と同年配の女性で、落ち着いた紺色のスーツに、小ぶりなキャリーケースを引いている。
「遅れて申し訳ありません」
女性は深く頭を下げた。
「鈴木と申します。本日からお世話になります」
花春夫人は言葉を失った。
「……本日?」
「日付を一日勘違いしておりまして。昨日お伺いする予定だったのですが」

 

そのころ晶は、森を抜ける遊歩道を歩いていた。風が木々を渡り、遠くで特急列車が谷を横切っていく。彼女は帽子のつばを少し上げ、その音に耳を澄ませた。
「今日は乗れそうね」
独り言を漏らし、小さく笑う。
携帯に電話がかかってきた。昨日会うはずだった友人だった。一部始終を説明すると、乾燥した日に火を起こすことの危険性をたしなめられ、無謀な行動を心配された。
「列車に乗り遅れて、知らない場所で一晩過ごすなんて」
「大丈夫、何も困らなかったわ――少なくとも、私は」


創作者名(ペンネーム):Tsuchiya
原典情報

『THE SCHARTZ-METTERKLUME METHOD』Saki

ジャンル:西洋文学

原典引用

 Lady Carlotta stepped out on to the platform of the small wayside station and took a turn or two up and down its uninteresting length, to kill time till the train should be pleased to proceed on its way. Then, in the roadway beyond, she saw a horse struggling with a more than ample load, and a carter of the sort that seems to bear a sullen hatred against the animal that helps him to earn a living. Lady Carlotta promptly betook her to the roadway, and put rather a different complexion on the struggle. Certain of her acquaintances were wont to give her plentiful admonition as to the undesirability of interfering on behalf of a distressed animal, such interference being “none of her business.” Only once had she put the doctrine of non-interference into practice, when one of its most eloquent exponents had been besieged for nearly three hours in a small and extremely uncomfortable may-tree by an angry boar-pig, while Lady Carlotta, on the other side of the fence, had proceeded with the water-colour sketch she was engaged on, and refused to interfere between the boar and his prisoner. It is to be feared that she lost the friendship of the ultimately rescued lady. On this occasion she merely lost the train, which gave way to the first sign of impatience it had shown throughout the journey, and steamed off without her. She bore the desertion with philosophical indifference; her friends and relations were thoroughly well used to the fact of her luggage arriving without her. She wired a vague non-committal message to her destination to say that she was coming on “by another train.” Before she had time to think what her next move might be she was confronted by an imposingly attired lady, who seemed to be taking a prolonged mental inventory of her clothes and looks.

創作メモ

主人公と夫人の対決が話の軸なのですが、主人公がただの傲慢で嫌味なキャラに見えてしまうと趣旨がずれるので、表現の工夫やエピソードの取捨選択が必要でした。教育実践の基盤になる事件も、原典は「サビニの女たち」なのですが、現代日本を舞台にしても違和感のない事件に置き換えるにあたり、なかなかよい事件が見つからず、核を外さない範囲で角度や条件の優先順位を変え、何度もAIと相談することになりました。

トーン・文体:現代語調
AI補助使用:使用した

・使用目的(原文の分析、現代等価物の検索・検討、核新訳の作成)

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