吉をどんな人間にするかということについて、吉の家では夕食の後になると、よく話が始まった。その夜もまた、その話が始まった。
吉は台所の隅で、食べ終えた皿を重ねていた。蛇口から落ちる水が、底の浅い鍋を小さく鳴らしていた。
「大学は無理に行かなくてもいい。専門学校で手に職をつけた方が堅い。」
父親がそういうと、母親は言った。
「美容師は立ち仕事でしょう。あの子は身体があまり強くないし。」
「絵が好きなんだから、美大でも受けさせたら。」
兄がスマートフォンを見たまま言った。
「でも、何か実績がないと難しいんだって。」
姉が言った。
「吉、何かないの。部活とか、賞をもらったとか、続けている趣味とか。」
吉は皿についた泡を水で流した。
「ない。」
「本当に何もないの。」
「うん。」
姉は笑った。
「何もないって、逆にすごいね。」
兄も笑った。
父親は箸を置いて、吉の方を見た。
「まだ卒業まで時間はある。何か一つくらい見つけろ。」
吉は返事をしなかった。
流しの端には水滴が並んでいた。大きいものと小さいものとが、ゆっくりつながった。一つになった水滴は、金属の縁を伝って落ちた。
「ラジオの放送作家なんかは?」
姉が言った。
「吉は昔から妙なことを言うじゃない。暗いけど、たまに面白いし。」
父親と兄とは、大きな声で笑った。
吉も少し笑った。笑うと、喉の奥に何かが残った。
その夜である。吉は、真っ暗で終わりのない場所に立っている夢を見た。遠くに一つの顔が浮かんでいた。顔はにやりと笑っていた。口は左右へ裂け、白い歯が並んでいた。正月に商店街で見た獅子舞にも似ていたが、頬の肉や鼻の脇は、人間のようにぴくぴく動いていた。
顔は少しずつ近づいて来た。吉は逃げようとした。しかし足は思うように動かなかった。膝が折れ、身体だけがその場に残った。汗だけが流れた。
顔はそのまま近づいて来たが、吉に何をするでもなく、ただ笑っていた。何を笑っているのか、吉には分からなかった。が、とにかく吉を馬鹿にしたような笑い顔であった。
翌朝、吉は布団の上に坐り、カーテンの隙間を見ていた。背中はまだ湿っていた。
その日、吉は学校で三度注意された。
最初は数学の時間だった。教師に答えを求められても黙っていると、
「さっきから外ばかり見ているだろう。」
と教師が言った。
二度目は国語の時間だった。
吉のノートには文字が一つもなかった。その代り、三つの顔が描かれていた。犬にも人にも見える顔だった。どの顔にも大きな口があった。
吉は笑う口を何度も描き直していた。線が重なり、口のまわりだけが真黒になっていた。
三度目は帰りのホームルームだった。
吉が鞄を持って立ち上がると、担任は吉を呼び止めた。
「進路希望調査をまだ出していないな。」
「はい。」
「明日までだぞ。」
「はい。」
「聞こえているなら、顔を上げろ。」
吉はもう一度、はい、と言った。
家へ帰ると、吉は机の引出しからタブレットとペンとを取り出し、人の来ない物置へ入った。ペンを動かした。顔を消しては、また描いた。口を広げ、頬を膨らませ、鼻の脇へ細い影を入れた。
その夜、吉は古いノートパソコンを物置へ運んだ。無料の編集ソフトを入れ、タブレットをつないだ。それから、また顔を描いた。
次の日も、その次の日も、吉は夕食を終えると物置へ入った。画面を開き、線を引いては消し、また引いた。口を左右へ大きく裂き、笑う顔を描いた。
春になり、吉は高校を卒業した。顔色は少し青くなっていたが、それでも夕食が終ると物置へ入った。
家族は相変らず、吉の仕事について話した。事務、介護、工場、配送と、候補だけは増えたが、話は一向にまとまらなかった。
或る日の昼、父親が久しぶりにノートパソコンを開いた。
「誰だ。これをこんなに重くしたのは。」
父親は何度もマウスを押した。画面はなかなか動かなかった。
「空きがほとんどないじゃないか。」
父親は保存先を開いた。
「face01」「face02」「face02_new」「face02_new2」…
同じような名前のファイルが並んでいた。
吉は台所で水を飲んでいた。
「吉がこの前、そのパソコンを使ってたよ。」
姉が言った。
「吉。何かしたのか。」
吉は水を飲み込んだ。黙っていた。
「物置にずっと籠ってたでしょう。何か隠してるんだ。」
姉は立ち上がった。
「やめろよ。」
吉が鋭く言った。
「ますます怪しい。」
姉は廊下へ出た。
吉は裸足のまま追いかけ、物置の扉を押さえた。
「ちょっと、怖いって。吉、離してよ。」
姉は吉の腕を振りほどき、扉を開けた。
暫くして、物置の奥の方から声がした。
「何これ。こんな顔、作ってたの。」
姉はタブレットを持って戻って来た。
吉は飛びついた。
姉は身体を引き、素早く父親に渡した。
父親はタブレットを顔の前まで持ち上げた。暫く黙って見ていた。
「これは、よく出来てるな。」
父親は指で画面を広げた。
口が耳まで裂けた顔が映っていた。頬や鼻の脇まで、今にも動きそうに作られていた。
「うん。これはよく出来てる。」
父親は首を少し左へ傾けた。画面の顔は、父親を見下ろすように、にやりと笑っていた。
「これは、売れるかもしれんな」
父親がそう言った。母親は黙って聞いていた。
翌日、姉はその絵を自分のSNSへ載せた。
「気持ち悪いけど、なんか見ちゃう」
「この顔、欲しい」
そんな反応が続き、保存され、転載されていった。
父親はその画面を見ながら言った。
「注文を受けて作れば仕事になる。」
やがて吉は、家で絵を制作するようになった。
笑う顔は何度も編集され、その絵のグッズが展開され、徐々に広がっていった。吉のアカウントには注文が来た。
吉は毎日、画面の前に座った。笑う顔の画像や動画を作り、広告を作った。最初に描いた顔は、吉のプロフィール画像になった。その顔は吉の名前の横で、絶えず笑っていた。無論、何を笑っているのか、誰も知らなかった。
吉は二十五年、その顔の下で仕事を続けた。パソコンを買い替え、ソフトの料金を払った。仕事が減ると金を借りた。
吉は貧乏した。無論、父も母も、もういなかった。
或る日、吉は久しぶりに自分のプロフィールを開いた。丸い枠の中で、あの顔がにやりと笑っていた。吉は腹が立った。次に悲しくなった。が、また腹が立って来た。
「お前のおかげで、俺はこんなことばかりするようになったんだ!」
吉はプロフィール画像を開いた。顔を引き延ばした。押し潰した。もとの形が分からなくなるまで思いきり歪めた。そして、迷わず「上書き保存」を押した。
暫くして、吉は椅子に坐ったまま、その顔を見ていた。いつも素材を見るように、拡大したり、縮小したり、色を落としてみたりした。ふと、この輪郭なら新しい絵が出来そうな気がした。すると間もなく吉の顔は、もとのように、ぼんやりと柔らかくなった。
創作者名(ペンネーム):まゆら ゆき
原典情報
『笑われた子』(横光利一)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2303_13372.html
ジャンル:日本文学
原典引用
吉をどのような人間に仕立てるかということについて、吉の家では晩餐後毎夜のように論議せられた。またその話が始った。吉は牛にやる雑炊を煮きながら、ひとり柴の切れ目からぶくぶく出る泡を面白そうに眺めていた。
「やはり吉を大阪へやる方が好い。十五年も辛抱したなら、暖簾が分けてもらえるし、そうすりゃあそこだから直ぐに金も儲かるし。」
そう父親がいうのに母親はこう言った。
「大阪は水が悪いというから駄目駄目。幾らお金を儲けても、早く死んだら何もならない。」
「百姓をさせば好い、百姓を。」
と兄は言った。
「吉は手工が甲だから信楽へお茶碗造りにやるといいのよ。あの職人さんほどいいお金儲けをする人はないっていうし。」
そう口を入れたのはませた姉である。
「そうだ、それも好いな。」
と父親は言った。
母親だけはいつまでも黙っていた。
吉は流しの暗い棚の上に光っている硝子の酒瓶が眼につくと、庭へ降りていった。そして瓶の口へ自分の口をつけて、仰向いて立っていると、間もなくひと流れの酒の滴が舌の上で拡がった。吉は口を鳴らしてもう一度同じことをやってみた。今度は駄目だった。で、瓶の口へ鼻をつけた。
「またッ。」と母親は吉を睨んだ。
吉は「へへへ。」と笑って袖口で鼻と口とを撫でた。
「吉を酒やの小僧にやると好いわ。」
姉がそういうと、父と兄は大きな声で笑った。
その夜である。吉は真暗な涯のない野の中で、口が耳まで裂けた大きな顔に笑われた。その顔は何処か正月に見た獅子舞いの獅子の顔に似ているところもあったが、吉を見て笑う時の頬の肉や殊に鼻のふくらはぎまでが、人間のようにびくびくと動いていた。吉は必死に逃げようとするのに足がどちらへでも折れ曲がって、ただ汗が流れるばかりで結局身体はもとの道の上から動いていなかった。けれどもその大きな顔は、だんだん吉の方へ近よって来るのは来るが、さて吉をどうしようともせず、何時までたってもただにやりにやりと笑っていた。何を笑っているのか吉にも分からなかった。がとにかく彼を馬鹿にしたような笑顔であった。
翌朝、蒲団の上に坐って薄暗い壁を見詰めていた吉は、昨夜夢の中で逃げようとして藻掻いたときの汗を、まだかいていた。(以下略)
創作メモ
家族の何気ない進路談義と軽口、それにより吉が思い描く笑う顔。それを表現したものが、親によって商品へと読み替えられ、その読み替えが人生を決めてしまうという流れを、現代になぞらえました。
笑いが何であるかや、因果関係の説明を控え、最後も吉の気持ちを明らかにしない点に苦労しました。また、笑いの不気味さを維持するよう努めました。
トーン・文体:現代語調
AI補助使用:使用した
・使用目的(ドラフト作成、校正ポイントのアドバイス)
読者の声
**もっと読みたい**
「笑われる」という感覚が、進路、創作、仕事へと形を変えながら吉の人生を支配していく展開が印象的でした。笑う顔が才能の発見であると同時に、逃れられない存在にもなっているところが不気味です。最後に壊した顔から、また新しい創作を思いつく結末にも余韻が残りました。
