1980年代の中ごろ、トルコのイスタンブールに長期出張しました。特命事項を仰せつかり、新年早々に雪が舞うイスタンブールに入りました。イスタンブールは、その昔、コンスタンティノープルと呼ばれ、東ローマ帝国の首都でした。その後、トルコのオスマン帝国の首都として長く繁栄してきました。しかし、私にはそれまで縁もゆかりもない地域で、いわば由緒ある古都の大都会に放り込まれたお上りさんのような気分でした。しかし、出張は半年以内に切り上げるという期限が定められていたので、早速、動き出しました。中央銀行を振り出しに、地場の銀行や企業、会計事務所、進出済みの日系企業などを次々と訪問しました。

そこで重要な役割を果たしたのが、車と運転手です。どこへ行くにも車が必要でした。運転手は、現地調査をある程度進めていた同僚らの口添えで、ヒルトンホテル周辺で営業していた人物を雇うことにしました。30才前後の生きのよい青年で、英国風のやや気取った英語を話していました。どこで習ったのか、と訊くと、トルコ人労働者と一緒にサウジアラビアで習い、通訳をやっていたと答える。そして名刺を差し出してきました。そこには、エルドアンと大書されていました。クイーンズ・イングリッシュを話し名刺を差し出す風変わりな運転手、というのが第一印象でした。しかし本人は実直にテキパキと働いてくれました。訪問先の予定表を渡しておくと、翌日には無駄なく的確に回ってくれました。道に迷ったり、回り道をしたりしている様子がほとんどみられません。こちらも車中で訪問内容の整理や報告書の作成などに集中できて大いに助かりました。

そんな忙しい日が続いたある日、彼が突然、ミスター前田、あなたは日本食が恋しくないか、と訊ねてきました。当時、イスタンブールには中華料理店は幾つかありましたが、日本食レストランは一軒もありませんでした。時間がある時に、黒海までドライブしましょう。海のほとりの海鮮レストランで刺身が食べられると聞きました。ご案内します、と言う。そして、香辛料と箸を持参してください、と言い添えました。そこで何とか、醬油とワサビ、箸を用意し、暇を見つけて黒海に向け出発しました。イスタンブールから黒海のほとりまで車で約2時間程度だったと記憶しています。車は、マルマラ海と黒海をつなぐボスポラス海峡をひたすら北上しました。海峡は大きな河のようで、対岸にビルや住居の合間に由緒ある城塞のような建物が幾つか展望できました。

黒海のほとりに着くと、運転手は、ミスター前田、この海の向こうはロシアだ、と人が変わったような厳しい目つきで呟きました。東西冷戦の時代でしたが、彼はソ連邦とは言わず、敢えてロシアと呼んだのです。オスマン帝国時代のトルコは帝政ロシアと何度となく戦い、クリミア半島を含む広大な領土を徐々に失っていきました。そうした歴史を思い浮かべているような目つきでした。しかし、さりげなくすぐに目的の海鮮レストランに案内してくれました。海辺に建てられた大きな民家風のレストランでした。まず目を引いたのは、入り口にあるコンクリート製の土管の形をした大きな生け簀でした。中は黒々としていて大小の魚が何匹も泳いでいる様子でした。どれでも好きな魚を選んでください、料理人に言って、刺身にさせます、と彼は言う。そう言われても魚の正体が全く分からない。大ぶりの魚を、えいや、と選んでから、レストランに入りました。店内は魚網のような垂れ幕が張り巡らされていて薄暗い。しかし窓の外には黒海が広がっています。

黒海は、澄んで青々としたエーゲ海と違って、塩分や硫化水素をたっぷり含んでいるために黒く見えると言われます。生息する魚も豊富で、シーフッドはトルコ料理のだいご味の一つとされています。しかし、揚げたりグリルしたりして生で食する習慣はありません。運転手は、日本の商社マンが、このレストランの台所まで入ってシェフに刺身の作り方を教えたのだと言います。やがて大きな皿に刺身が盛られてきました。赤味がかった切り身が丁寧に並べられ、海藻のようなものが添えられています。皿の一角に用意した醤油をたらし、ワサビと混ぜて刺身をひたし、やおら口に運びます。魚肉の柔らかい感触が舌の上に広がります。うーむ、何やらマグロ風の味。確かに刺身です。久しぶりの日本の味です。後で調べたことですが、黒海に生息するマグロに近いカツオといわれるハガツオの刺身だったと思われます。まさしく黒海の珍味でした。トルコ出張では沢山の地元の人々に助けられましたが、この珍味を紹介してくれた一風変わった運転手の思いやりに、改めて感謝の念を深くしました。

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