出版翻訳者をめざすあなたへ
――AI時代だからこそ、本来の翻訳力を

一般社団法人日本翻訳協会(JTA)は、「日本翻訳協会(JTA)AI宣言」において、AI時代の翻訳における専門性、品質、倫理および責任に関する基本原則を示しました。
本稿では、その趣旨を踏まえ、これから出版翻訳を学ぶ人がAIとどのように向き合い、何を身につけるべきかを考えます。
いま、翻訳を取り巻く環境は大きく変わっています。
生成AIは、翻訳、要約、調査、用語整理、推敲、表現の提案など、これまで人間が時間をかけて行ってきた作業の一部を、短時間で処理できるようになりました。
その能力は今後も向上し、翻訳の仕事や翻訳者の役割を変えていくでしょう。
これから出版翻訳者をめざす人にとって、AIは無視できない存在です。
しかし、AIを使えることと、翻訳者として仕事ができることは同じではありません。
AIが出力した文章をそのまま採用するだけでは、翻訳者の仕事をしたことにはならないからです。
AIが自然な訳文を容易に生成できる時代だからこそ、その訳文が本当に正しいのか、原文の意味や文体を適切に伝えているのかを判断できる力が必要になります。
その土台となるのが、本来の翻訳力です。
最も大切なのは、本来の翻訳力
AI時代の翻訳者にとって、最も大切なものは何でしょうか。
それは、AIを操作する技術だけではありません。
原文を自分で読み、その意味を理解し、読者に伝わる日本語や英語として表現する力です。
バベルでは、長年にわたり「翻訳文法」を教えてきました。
バベルの翻訳文法は、原文の表面的な語順をそのまま移すのではなく、文の形式と構造を手がかりとして、日本語と英語の違いに対処し、読みやすく自然な訳文を作るための方法です。
外国語を単語単位で置き換えるだけでは、読者に伝わる翻訳にはなりません。
原文の構造を理解し、日本語と英語それぞれの特徴を踏まえて、内容を適切に組み立て直す必要があります。
この考え方は、AI時代においても、翻訳を学ぶ人の重要な基礎になります。
地頭ならぬ、本来の翻訳力。
バベルが培ってきた翻訳文法を土台として、原文を読み解き、読みやすい日本語、英語を生み出す力。
その本来の翻訳力があってこそ、AIを正しく評価し、使いこなすことができます。
AIは、さまざまな訳文を示すことができます。
しかし、その訳文が適切かどうかを判断するには、自分自身に翻訳力がなければなりません。
AIを使いこなすためにも、まず本来の翻訳力が必要なのです。
AIは、翻訳者に代わって責任を負わない
AIは、もっともらしい文章を生成します。
文法的に整い、読みやすく、一見すると問題がないように見える訳文を、短時間で示すことができます。
しかし、その文章が原文の意味を正しく伝えているとは限りません。
AIは、次のような誤りを生むことがあります。
- 原文の意味や論理を取り違える
- 固有名詞や事実関係を誤る
- 原文にない内容を付け加える
- 重要なニュアンスを落とす
- 登場人物の口調を均一にする
- 作品固有の文体やリズムを失わせる
とりわけ注意しなければならないのは、AIの文章が流暢であるため、その誤りが見えにくいことです。
読みやすさは、正確さを保証しません。
AIは、自らの誤りについて職業上の責任を負いません。
最終的に訳文を選び、読者に提示し、その品質について責任を持つのは人間です。
AIを使用したからといって、翻訳者、編集者、出版社、翻訳会社などの責任が軽くなるわけではありません。
むしろ、AIの出力を利用する以上、その内容を検証し、採用の可否を判断する力が、これまで以上に必要になります。
「AIがこう訳したから」では、翻訳上の判断を説明したことにはなりません。
出版翻訳の出発点は、原文を読むこと
AI時代であっても、出版翻訳の出発点は原文です。
翻訳者は、語句の表面的な意味だけではなく、文脈、論理、語り手の視点、人物の感情、文章のリズム、作品の背景まで読み取らなければなりません。
AIの訳文を先に読むと、その解釈に引きずられることがあります。
AIが生成した日本語が自然であるほど、原文とのずれや解釈の偏りに気づきにくくなる場合があります。
一度読んだ表現が頭に残り、それ以外の解釈を考えにくくなることもあります。
少なくとも翻訳を学ぶ段階では、AIの訳文を見る前に、まず自分で原文を読むことが重要です。
これは、AIを一切使わないという意味ではありません。
AIの解釈に依存せず、自分自身の読解を成立させてからAIを利用する、ということです。
原文を前にしたときには、次のように考えてみてください。
- この文章は何を伝えようとしているのか
- なぜ、この言葉が選ばれているのか
- 誰が誰に向かって語っているのか
- どのような感情が込められているのか
- この一節は作品全体の中でどのような役割を持つのか
- 語り手や登場人物の声にはどのような特徴があるのか
自分なりの読みを持ったうえで、AIの出力と比較する。
この順序が重要です。
AIの答えを見る前に、まず自分で原文を読む。
それが、本来の翻訳力を身につけるための基本です。
AIの出力は、答えではなく候補
AIは、適切に利用すれば、翻訳者の調査や検討を助ける有効な道具になります。
たとえば、次のような使い方があります。
- 語句の意味や用例を調べる
- 背景知識を整理する
- 複数の解釈を比較する
- 訳語や表現の候補を出させる
- 文章の不自然な箇所を指摘させる
- 長い文章の論理構造を整理する
- 用語や表記の不統一を確認する
- 自分が見落としている可能性を挙げさせる
こうした用途では、AIは翻訳者の視野を広げ、検討を効率化する道具になり得ます。
ただし、AIが示す訳や解釈は、完全に正しい答えではありません。
あくまで、検討するための候補です。
原文に合っているか、作品の文体にふさわしいか、読者に誤解を与えないかを判断するのは翻訳者です。
一つの正解を得るためではなく、複数の可能性を比較するために使う。
判断を委ねるのではなく、自分の判断を確かめるために使う。
出力をそのまま採用するのではなく、比較し、検証し、必要に応じて修正する。
そのためにも、本来の翻訳力が必要です。
AIの出力を見極める
AIを適切に活用するためには、操作方法だけではなく、その出力を評価する力が欠かせません。
読みやすく整った文章であるというだけで、適切な訳文だと判断してはいけません。
次のような点を確認する必要があります。
- 原文との対応関係は保たれているか
- 意味が抜け落ちていないか
- 原文にない内容が加えられていないか
- 原文の論理関係が変えられていないか
- 文体や語り口が均一化されていないか
- 登場人物の口調が適切に訳し分けられているか
- 専門用語や固有名詞は正確か
- 文化的、歴史的な背景を誤っていないか
- 著者の意図や作品の価値を損なっていないか
- 訳文は想定される読者と出版目的に適合しているか
これらを確認するには、外国語の読解力、日本語や英語の表現力、調査力、文学的感受性、編集的判断力が必要です。
つまり、AIを使いこなすためにこそ、翻訳者としての基礎能力が必要なのです。
本来の翻訳力がなければ、AIの誤りや不適切な表現を見抜くことはできません。
反対に、確かな翻訳力を持つ人は、AIの長所と短所を見分け、必要な場面に限定して活用できます。
翻訳者に求められる、選択と判断
AIが多くの訳文を短時間で生成できるいま、それでも翻訳を学び、出版翻訳者をめざす意味はあるのでしょうか。
AIが訳文を生成できるようになったからといって、翻訳者が不要になるわけではありません。
むしろ、翻訳者に何が求められるのかが、これまで以上にはっきりしてきました。
翻訳は、単語を別の言語に置き換えるだけの作業ではありません。
翻訳者は原文を解釈し、何を、どのような日本語や英語で読者に届けるかを、そのつど選ばなければなりません。
同じ原文から複数の訳文が成り立つからこそ、翻訳者は、原文の意味、文体、作品全体との調和を考え、どの表現を採用するかを判断する必要があります。
出版翻訳では、次のような選択が求められます。
- 語り手の声を、どのように表すのか
- 原文のリズムを、訳文にどこまで生かすのか
- 登場人物の感情を、どのように伝えるのか
- 読者が自然に読める表現に、どこまで整えるのか
- 原作特有の文化的な違いを、どこまで残すのか
- 説明を加えるのか、読者の理解に委ねるのか
- 語句の意味を優先するのか、場面全体の効果を優先するのか
こうした選択には、作品への深い理解と、それぞれの表現を選ぶ理由が必要です。
AIは、複数の候補を示すことができます。
しかし、何を選び、どのような訳文として読者に届けるかを決めるのは人間です。
翻訳者には、自らが選んだ解釈と表現について、その理由を説明し、責任を持つことが求められます。
著作権、機密性、契約条件を守る
AIを利用するときには、訳文の品質だけでなく、権利や情報管理にも注意しなければなりません。
未刊行の原稿、出版前の作品、著作権で保護された文章、依頼者から預かった資料などを、許可なく外部のAIサービスに入力すると、情報漏洩や契約違反につながる可能性があります。
AIサービスによって、入力したデータが保存されるか、サービスの改善や学習に利用されるか、どのように管理されるかは異なります。
出版社、翻訳会社、著作権者、依頼者が、AI利用について独自の方針を定めている場合もあります。
利用する前に、次の点を確認する必要があります。
- AIサービスの利用規約
- 入力情報の保存や学習利用の有無
- 出版社や依頼者との契約条件
- 入力してよい情報と、入力してはいけない情報
- 著作権、翻訳権、引用、利用許諾などの権利関係
- 必要な場合の依頼者や編集者の許可
便利だからという理由だけで、安易に原稿を入力してはいけません。
何をAIに入力し、どの工程で利用したのかを自分で管理することも、翻訳者の責任です。
AIの利用目的と範囲を説明できるようにする
これからの翻訳者には、「AIを使ったか、使わなかったか」という二者択一だけではなく、何のために、どの工程で、どのように使ったのかを説明できる力が求められます。
たとえば、AIの利用目的には次のような違いがあります。
- 背景調査に使用した
- 語句や用例の確認に使用した
- 訳語候補の比較に使用した
- 複数の解釈を検討するために使用した
- 下訳や初稿の生成に使用した
- 訳文の校正や表記確認に使用した
- 用語や文体の統一を確認するために使用した
どの工程でAIを使用したかによって、翻訳者自身が行った作業と判断の範囲は異なります。
重要なのは、AIの使用を曖昧にせず、翻訳工程を自分で管理することです。
- どの段階でAIを使ったのか
- なぜ、その工程でAIを使ったのか
- どのような情報を入力したのか
- 出力をどのように検証したのか
- 最終的な表現を誰が判断したのか
- 問題が生じた場合、誰が責任を負うのか
これらに答えられる状態でなければ、専門職としてAIを管理しているとはいえません。
契約条件や依頼者、出版社、翻訳会社の方針に応じて、使用したAI、利用目的、利用範囲を説明できるようにしておく必要があります。
AIを使うこと自体が問題なのではありません。
AIに依存し、判断の所在が分からなくなることが問題なのです。
学習や能力評価では、AI利用が制限されることがある
実務では、契約条件や案件の目的に応じて、AIを調査、下訳、チェックなどに利用する場合があります。
一方、翻訳を学ぶ過程では、AIの利用が制限または禁止されることがあります。
これは、AIを否定するためではありません。
学習者本人の原文読解力、訳文作成力、日本語や英語の表現力、文体判断力などを育て、評価するためです。
原文を自力で読み、訳文を組み立てる能力を身につけるための課題で、最初からAIに初稿を生成させてしまえば、学習者自身の読解や表現の過程が見えなくなります。
AIを使う課題と、使わずに取り組む課題は、目的が異なります。
- 基礎的な翻訳能力を養う課題では、AI利用を制限する
- AI出力の検証力を養う課題では、AIを使用する
- 実務工程を学ぶ課題では、利用範囲を決めてAIを使う
- 能力評価では、何を評価するかに応じてAI利用の可否を明確にする
重要なのは、AIを単純に「使ってよい」「使ってはいけない」と考えることではありません。
何を学び、何を評価するのかを明確にし、その目的に応じてAIの利用範囲を決めることです。
学ぶべきものは、プロンプトだけではない
「良いプロンプトを書けば、良い翻訳が得られる」と考える人もいます。
もちろん、AIへの指示の出し方を学ぶことには意味があります。
しかし、プロンプトは、翻訳者の考えや方針をAIに伝えるための手段にすぎません。
原文をどう読み、どのような訳文を目指すのかという方針がなければ、的確な指示を出すことも、AIの出力を評価することもできません。
出版翻訳者が身につけるべきなのは、プロンプトの書き方だけではありません。
- 外国語を正確に読む力
- 読みやすい日本語や英語を書く力
- 文脈と作品全体を把握する力
- 文体や語り口を読み取る力
- 作品の背景を調査する力
- 訳文を推敲し、編集する力
- 著作権や出版実務を理解する力
- 自分の判断を説明する力
こうした本来の翻訳力が土台にあってこそ、AIを有効に使うことができます。
AIへの指示を学ぶ前に、自分が何を読み取り、何を判断しなければならないかを学ぶ。
その土台があって初めて、AIは有効な道具になります。
AI時代だからこそ、翻訳を学ぶ
AIが自然な訳文を生成できるようになったいま、翻訳を学ぶ意味があるのかと不安に思う人もいるでしょう。
しかし、AIが訳文を作るからこそ、その訳文を見極める力が必要なのです。
作品を深く読み、その魅力を日本語や英語で伝える。
著者の語り口を読み取り、それをどのように表現するかを考える。
読者が自然に読み進められ、なおかつ原作の個性を感じられる訳文を生み出す。
それは、単に外国語を別の言語に置き換えることではありません。
AIを必要以上に恐れることはありません。
しかし、その能力を過信することもできません。
これから必要とされるのは、AIを拒絶する翻訳者でも、AIにすべてを委ねる翻訳者でもありません。
AIを使いながらも、自分で読み、自分で考え、自分で選び、自分の訳文に責任を持つ翻訳者です。
その出発点となるのは、本来の翻訳力です。
バベルが培ってきた翻訳文法を土台として、原文を読み解き、読みやすい日本語、英語を生み出す。
その本来の翻訳力があってこそ、AIを正しく評価し、使いこなすことができます。
発信:バベル






















