人を笑わせるのが得意な翔太は、ある日、クラスメートの直人が大切にしている青いクジラのマスコットをからかってしまう。翔太の何気ないひと言は、思いがけない形で広がっていった。言えなかったこと、見えなかったこと、思い込んでいたこと ― すれ違った二人のあいだに、最後に残ったものとは。
二学期が始まって少したったころ。九月になっても昼間はまだ暑く、開け放した教室の窓からは、校庭の土のにおいと、遠くのセミの声が入ってきていた。
翔太は、クラスで人を笑わせるのが得意だった。ちょっとしたものまねや冗談を言うと、たいていだれかが笑った。
そんな翔太が、直人のかばんについている小さなマスコットに気づいた。青いクジラだった。手のひらに入るくらいの大きさで、丸い目が二つついており、長く使っているのか、しっぽの先が少し毛羽立っていた。
「まだ、こんなのつけてるんだ」
翔太はそう言って、かばんについたクジラをつまみ、その顔をみんなのほうへ向けた。
「ぼく、直人くんのお友だちです」
わざと高い声を出すと、近くにいた何人かが笑い、翔太もつられて笑ったが、直人だけは笑わなかった。
直人は黙ってクジラをかばんから外し、机の中にしまった。
それだけのことだった。少なくとも、そのときの翔太はそう思っていた。
それから、クラスの中で、直人のクジラがからかわれることが増えた。
直人が見せているわけではなかった。休み時間になると、誰かが直人の机からクジラを出して、
「直人くんのお友だちです」
と翔太のまねをし、何人かがまた笑った。
別の日には、クジラに小さな紙の帽子がかぶせられていた。
直人はそれを黙って外した。翔太はその様子を見ていたが、何も言わなかった。自分から始めたようなものなのに、謝って直人に何と言われるのかがこわかった。
十一月の終わり、帰りの会で担任が言った。
「直人は、来月いっぱいで転校することになりました」
教室が少しざわつき、翔太は直人を見たが、直人は前を向いたままだった。窓の外では、風に吹かれた枯れ葉が校庭の隅を転がっていた。
先生は転校の理由を話さず、直人も何も言わなかった。
翔太は、青いクジラをみんなのほうへ向けて、笑わせた日のことを思い出した。
あれから、直人は休み時間に一人でいることが増え、給食を食べ終えると早く教室を出るようになった。前は一緒に帰っていた生徒とも、最近はあまり話していない。
――おれが最初だったんじゃないか。
自分があのクジラを笑わなければ、みんなも直人をからかわなかったんじゃないか。翔太はそう考えたが、直人に転校の理由を聞く勇気は出なかった。
数日後の放課後、翔太は教室に忘れた教科書を取りに戻った。
日が短くなり、窓から差し込む夕方の光はもう薄かった。
翔太は階段を上りながら、直人のことを考えていた。
休み時間に一人でいる直人を見ていると、ときどき自分を見ているような気がした。
クラスを笑わせてはいたが、笑いがおさまると、翔太のまわりにはそれほど人が残らなかった。
――直人も、ずっと一人だったのかな。
教室に入ると、窓際にある直人の机の上に、青いクジラが置いてあった。
その顔には、黒い油性ペンで太い眉毛とひげが描かれていた。
翔太は立ち止まり、誰もいない教室を見回してからクジラを手に取った。
これくらいなら、消せると思った。
翔太はクジラを持って手洗い場へ行き、せっけんをつけて指でこすった。黒い線は少しずつ薄くなったが、青い色まで水ににじみ、丸かった片方の目も、こすったところだけ白くかすれてしまった。
翔太は手を止めた。さっきよりひどくなっていた。
廊下の窓から入る風が冷たく、ぬれた指先が急に冷えた。翔太はクジラをタオルで押さえ、元の場所に戻した。
次の日、直人はクジラを見て、長いこと黙っていた。
青かった顔の一部が白っぽくなり、片方の目は半分消えていた。翔太は少し離れたところから見ていたが、直人は誰にも何も言わず、クジラをかばんの内側にしまった。
翔太は自分の席に座り、また、やってしまった、と思った。
それから翔太は、直人の物にはなるべく触らないようにした。その代わり、朝、少し早く学校へ来るようになった。
ある朝、直人の机に「クジラ君」という文字が鉛筆で書いてあり、翔太は消しゴムで消した。朝の教室はまだ暖房が入っておらず、窓ガラスの近くに立つと冷たい空気が伝わってきた。
別の日には、下駄箱に折った紙が入っていた。開くと、クジラの絵の横にからかうような言葉が書いてあったので、翔太は紙を丸め、ごみ箱の奥へ押し込んだ。
誰がしているのか、翔太にも分からなかった。ただ直人が見る前に消せるものは消した。
そのうち、直人の机には何も書かれなくなり、下駄箱にも紙は入らなくなった。少なくとも、直人が見るころには。
十二月のある夕方、翔太は忘れた筆箱を取りに職員室の前を通った。外はもう暗くなりかけ、昇降口のガラス戸の向こうには、葉をほとんど落とした木の枝が黒く見えていた。
その昇降口のほうから、直人と母親の声が聞こえた。母親は、担任との面談に来ていたらしい。
「最近は何もないんでしょう?」
母親が言った。
「うん。机に書かれることもなくなったし、下駄箱の紙も最近はない」
「先生も気にかけてくださってるみたいだし、最近は落ち着いたならよかったね」
直人は少し黙ってから、
「そうだね」
と言った。
翔太は職員室の前で足を止め、先生じゃない、と言いそうになったが、直人と母親の足音が近づいてきたので、階段のほうへ曲がった。
少しだけ、つまらなかった。
終業式まで、あと三日になった。窓の外では冬の低い日が傾き、校舎の影が校庭の半分ほどまで伸びていた。
放課後、翔太が教室へ戻ると、窓際の直人の机に、また「クジラ君」と鉛筆で書かれていた。
翔太は筆箱から消しゴムを出した。毎朝使っていたので、もう指先ほどの大きさしか残っておらず、表面は鉛筆の粉で黒く汚れていた。
翔太は文字の端からこすり始めたが、もうすぐ直人と会えなくなると思うと、ふと「ごめんね」と伝えたくなった。片方の目を白くしてしまったクジラのことも、まだ謝っていなかった。
翔太は手を止め、自分の机からノートを取り出すと、空白のページに「ごめんね」と書いた。そのページをていねいに破り取り、四つ折りにした。
そのとき、後ろで扉が開いた。
直人が立っていた。引っ越しの準備のため、明日から学校を休むことになり、荷物を取りに来たのだ。
「何してるんだよ」
翔太は振り返った。
「いや、これは……」
直人は翔太の手にある四つ折りの紙を見た。
「やっぱり、下駄箱に入れてたのも、おまえだったんだ」
「違う」
翔太は言った。
「何が違うんだよ」
「これ、おまえに――」
直人は翔太から紙をひったくった。
「もういいよ」
直人は紙を握りしめた。声は大きくなかったが、そのほうが翔太にはこわかった。
「もう、お前とは会いたくない…!」
直人はそう言って、紙を破いた。
翔太は何も言えず、その場にいられなくなって走り去った。
直人はふと自分の机を見た。
「君」の文字だけが、まだ薄く残っていた。そのそばには、角がすっかりなくなり、鉛筆の粉で黒く汚れた小さな消しゴムが置いてあった。
直人は机を見たまま動けなかった。消しかけの「君」に指を置き、黒ずんだ消しゴムを見た。それから、翔太が走っていった教室の扉に目を向けた。
窓から夕陽が差し込んできた。
その光が照らす床の上には、ちぎれた「ごめんね」の紙切れが残っていた。
創作者名(ペンネーム):まゆら ゆき
原典情報
『ごん狐』(新美南吉)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/628_14895.html
ジャンル:日本文学
原典引用
一
これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。
むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです。
その中山から、少しはなれた山の中に、「ごん狐」という狐がいました。ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました。
或秋のことでした。二、三日雨がふりつづいたその間、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。
雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がきんきん、ひびいていました。
ごんは、村の小川の堤まで出て来ました。あたりの、すすきの穂には、まだ雨のしずくが光っていました。川は、いつもは水が少いのですが、三日もの雨で、水が、どっとましていました。ただのときは水につかることのない、川べりのすすきや、萩の株が、黄いろくにごった水に横だおしになって、もまれています。ごんは川下の方へと、ぬかるみみちを歩いていきました。
ふと見ると、川の中に人がいて、何かやっています。ごんは、見つからないように、そうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。
「兵十だな」と、ごんは思いました。兵十はぼろぼろの黒いきものをまくし上げて、腰のところまで水にひたりながら、魚をとる、はりきりという、網をゆすぶっていました。はちまきをした顔の横っちょうに、まるい萩の葉が一まい、大きな黒子みたいにへばりついていました。
しばらくすると、兵十は、はりきり網の一ばんうしろの、袋のようになったところを、水の中からもちあげました。その中には、芝の根や、草の葉や、くさった木ぎれなどが、ごちゃごちゃはいっていましたが、でもところどころ、白いものがきらきら光っています。それは、ふというなぎの腹や、大きなきすの腹でした。兵十は、びくの中へ、そのうなぎやきすを、ごみと一しょにぶちこみました。そして、また、袋の口をしばって、水の中へ入れました。
兵十はそれから、びくをもって川から上りびくを土手においといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。
兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました。どの魚も、「とぼん」と音を立てながら、にごった水の中へもぐりこみました。
一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッと言ってごんの首へまきつきました。そのとたんに兵十が、向うから、
「うわアぬすと狐め」と、どなりたてました。ごんは、びっくりしてとびあがりました。うなぎをふりすててにげようとしましたが、うなぎは、ごんの首にまきついたままはなれません。ごんはそのまま横っとびにとび出して一しょうけんめいに、にげていきました。
ほら穴の近くの、はんの木の下でふりかえって見ましたが、兵十は追っかけては来ませんでした。
ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。(以下略)
創作メモ
「人は互いに、限られた情報から相手の意図や出来事の意味を"自分なりの物語"で補ってしまうことにより、取り返しのつかないことが起こり得る」という核を見いだしました。
一方の善意が受け止められなかった、という話ではなく、双方が自分なりに解釈していることをポイントとしました。
私の息子を含め小中学生が、昔話ではなく自分事として受け止め、最後に考えさせられるような内容にできるよう努力しました。
トーン・文体:現代語調
語り手
翔太(ごん狐)寄りの第三者。中学生以上の人にも自分事として読んでもらえるよう、常体としました。
AI補助使用:使用した
・使用目的(構成案の作成、文章校正)
