2025年6月7日 第365号 World News Insight (Alumni編集室改め) 2025年後半は -‘自分なり’、‘日本なり’の幸福を再定義する年へ バベル翻訳専門職大学院 副学長 堀田都茂樹
令和の時代も中盤に入り、私たちは再び「価値観の地殻変動」のただ中にいます。
かつて日本は1990年代以降、「グローバル・スタンダード」という名のもとに、実質はアングロサクソン型の経済・教育・法制度・言語政策を無批判に輸入し続けてきました。郵政民営化や司法制度改革、英語教育の早期化や大学の授業英語化など、年次改革要望書に沿う形で進められてきた一連の「構造改革」は、日本固有の文脈や土着的価値を空洞化させる結果となりました。
そしていま、世界の潮目は明確に変わっています。
グローバリズムはその限界を露呈し、米中対立、ロシア・ウクライナ戦争、AI覇権争い、そしてパンデミック後の「主権の復権」という形で、国家単位でのローカル回帰と文化的自律が再評価されています。
にもかかわらず、日本はいまだに「英語を話せること=グローバルである」と信じ、世界標準という名の幻想を追い続けています。これは、英語圏スタンダードの周縁国家としての「英語化二流国」への道にほかならず、格差社会・情報従属社会・文化自信喪失社会を招きかねません。
しかし、かつて明治期の日本はどうだったでしょうか。西洋の先進知を単なる模倣ではなく、翻訳という営みを通して日本化し、文化的咀嚼を経て近代国家への道を歩んだのです。その知的独立こそ、今まさに再起動すべき戦略なのです。
「英語の植民地化」に抗して 青山学院大学の永井忠孝氏がその著書『英語は害毒』で紹介するエスキモーの村の事例は示唆に富みます。英語の導入によって伝統的な価値体系が崩壊し、若者が将来に希望を持てなくなり、自殺や犯罪が増加したという現実。そこにあるのは「言語の力」が文化をいかに破壊しうるかの警鐘です。
私たちは今、単なる語学習得ではなく、言語が文化を背負っているという大原則に立ち返る必要があります。言語はツールではなく、世界観を映すレンズなのです。
グローバルとは「相対化の力」 当社で英訳を担当した渥美育子氏は、その著『「世界で戦える」人材の条件』の中で、「グローバル教育とは自文化を相対化する教育である」と述べています。英語を学ぶことではなく、世界の多様な価値観の中で自らの文化を再認識し、他者と協調できる「文化ナビゲーター」となることが目的だというのです。
渥美氏は、世界を大きく4つの文化コードで整理します:
- モーラルコード型(人間関係重視):日本、南欧、南米など
- リーガルコード型(ルール重視):米国、英国、北欧など
- レリジャスコード型(宗教原理):中東、北アフリカなど
- ミックスコード型(混合モデル):インド、フィリピンなど
各文化は「モーティベーター(動機付けの源泉)」と「ディモーティベーター(動機を削ぐもの)」により動いています。こうした複眼的視点こそが、グローバル時代の知的リテラシーであり、それは英語だけでは決して習得できません。
「虚構」を見抜き、「共生」に舵を切る ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(バベル翻訳専門職米国大学院講師出身 柴田裕之氏訳)は、国家、宗教、貨幣といった人類の営為が「虚構」であることを示し、それらを相対化する視点の重要性を説きました。私たちが信じている「英米的価値観」もまた、一つの物語に過ぎません。
この虚構を見抜いた上で、次に進むべき道は何か――それは多文化共生・相対主義ではないでしょうか。
文化に優劣はない。
言語に上下はない。
違いを恐れず、違いを知り、違いを楽しむ。
この態度の中にこそ、‘自分なり’、‘日本なり’の幸福を再定義する鍵があります。今求められるのは、誰かの「正解」を追うのではなく、多様な価値を相対化しながら、自らの「意味」を編み直していく知的成熟なのでしょう。
2025年後半、私たちはいよいよその一歩を踏み出す時を迎えています。
「英語が話せるか」ではなく、「何を語れるか」。
その問いを胸に、新たな地平を見つけに行きましょう。