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2022年6月22日 第318号 World News Insight (ALUMNI編集室改め) 

発行:バベル翻訳専門職大学院 ALUMNI Association

「 西洋文明の没落 東洋文明の勃興 」  

バベル翻訳専門職大学院(USA) 副学長 堀田都茂樹
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 太平洋戦争後、GHQ占領軍はなんと7000冊以上の本を焚書として日本人の目に触れないようにした。

「こんな本を日本人が読んだら、自分たちが教えようとしている『民主主義』に疑いの目を向けてしまう」と思って焚書にしたと言えるでしょう。その中の一冊が、福澤桃介の1932年刊『西洋文明の没落 東洋文明の勃興』(復刻版、ダイレクト出版)です。今回は、この本の内容に触れながら、西洋人の黒歴史を辿ってみよう。

 この本が出版される前、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本が国際連盟規約の中に「人種差別の撤廃」を明記するべきと言う提案をして11対5で賛成多数となったが、当時のアメリカ合衆国大統領だったウッドロウ・ウイルソンは委員会の議長を務めていたが、議長権限で全員一致でなければ可決されないと否決した。国際会議で人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界最初であった。このようなことは学校の歴史で習うことは決してないでしょう。学校では日本人はアジアを侵略し悪いことをしたというように教えられた。この本は、そうではないことを知るための教科書でもある。

 福澤桃介氏(1868-1938)の略歴は明治元年埼玉県に生まれ、旧姓岩崎桃介。慶應義塾在学中に福澤諭吉の養子となり渡米、帰国後諭吉の次女福沢房と結婚、その後実業家として活躍し、日清紡績、東亞合成、関西電力、中部電力、東邦ガス、大同特殊鋼、名古屋鉄道、帝国劇場など、今にも存続している有名企業の設立や経営に携わる。こうした活躍から「日本の電力王」と呼ばれた。また、その後衆議院議員も勤めた。 桃介は単身で渡米して、ウィリアム・タフト元大統領やゼネラル・エレクトリック社社長などと渡り合った人物で、西洋文明を実体験をもって語ることができる人物だったと言う。
 
以下、日本史・文化研究者の伊勢雅臣さんの視点もお借りして本書に触れたい。
 
 西洋文明の本質を鮮やかに浮かび上がらせているのは、以下のくだりでしょう。まず、アメリカ独立の宣言について見るに、これは冒頭において『人間は生れながらにして平等である。平等に幸福を追求するの権利がある』と書かれてある、このような意味が全文を一貫して、人間の平等を強調しているのである。そして、これが読み上げられた時に、フィラデルフィアの大会堂に居並んだ全アメリカの愛国者、人道論者は、満堂一斉に歓呼の声を揚げ、誠に世にも美わしい感激の情景を現出したのであった。

 しかるに、この大会堂の窓一つ隔てて外の光景を眺めると、当時フィラデルフィアの人口たるや、黒人が約三分の二近くで、町を見ると灰色に見えると言われたほどであつた。しかし、その黒人達はことごとく皆な奴隷であったのである。しかのみならず、そのフィラデルフィアの大通りを、数百数千の奴隷が鞭で殴られ、棍棒をもって打たれながら重い荷物を挽(ひ)いて呻吟の声を上げ、悲鳴泣喚(きゅうかん)を継続して通っているという暗澹たる有り様であったのだ。

「人間は生まれながらにして平等である」という美しい一節が読み上げられ、「満堂一斉に歓呼の声を揚げ」た大会堂の外では、人口の約3分の2を占める黒人が奴隷として、「鞭で殴られ、棍棒をもって打たれながら」重労働を課されている、という鮮烈な対比は、西洋文明の本質を鮮やかに浮かび上がらせている。

 奴隷制度は17世紀頃からヨーロッパ人たちが己の物欲を満たすために、奴隷を「手作業もできる賢い牛馬」としてアフリカやアジアで捕まえて、ヨーロッパやアメリカで売りさばいたもので、累計3億人もの人間が奴隷にされたようだ。

 キリシタンが日本にやってきた際にも、彼らは日本から数万人規模で奴隷を「輸出」している。戦争捕虜や、誘拐されたり親に売られた子供が奴隷として南蛮商人によって東南アジアからポルトガル本国、さらには南米にまで売られていた。

 1596年、日本では豊臣秀吉の晩年、アルゼンチンの古都ゴルドバで日本人青年が奴隷として、ある神父に売られたという古文書が残っている。「日本州出身の日本人種、フランシスコ・ハポン(21歳)、戦利品(捕虜)で担保なし、人頭税なしの奴隷を800ペソで売る」と記録されている。

 秀吉が天正15(1587)年にキリスト教宣教師追放令を出したのも、こうした奴隷輸出に怒った事が一因でした。

 しかし、18世紀末葉あたりから産業革命が起こり、ヨーロッパ人は大量生産のための資源獲得、大量販売のための市場獲得の必要性から、アフリカ、アジアを植民地支配するようになっていった。産業革命によりヨーロッパ本国では機械化によって奴隷の需要は減り、今度は植民地獲得に血道を上げるようになっていく。福澤はその様子をこう記述している。

 アメリカ大陸においては、モンロー主義の宣言が、1823年に行なわれ、これによってアメリカはヨーロッパより独立したとはいうものの、その実、そこに住んでいたヨーロッパ人の支配に全アメリカは帰したのである。

 かく白人は、アメリカを手に入れても、なおこれに満足せず、さらに進んで他の地方を支配するに取懸った。18世紀の末葉よりアフリカ、アジア両方面に亘(わた)って領土分割の運動を起こしたのである。

その結果、十九世紀の一世紀は、ヨーロツパ人によって世界が分割された世紀たるの観を呈
し、ついに世界大陸の九分の八の面積が、ヨーロツパ人の支配下に帰してしまった。

 奴隷制と植民地主義は、他者を犠牲にして自分の物的欲望を満たす制度と捉えれば、同じ動機から生まれている。この二つを、近代におけるヨーロッパ人支配の本質と捉えたところに、福澤の実業人としての鋭い直感が窺われる。

 しかし、ヨーロッパ人はなぜこれほどまでに自らの欲望従属に走ったのでしょうか? ここにも福澤の彼らの本質を鋭く見抜いた記述が見られる。

 まず、中世のヨーロッパはカトリック教会の禁欲主義に支配されていた。人間は欲を抑えることで神に救われ、天国に行けるという。しかし、15世紀のオスマン・トルコの勃興により、ギリシャの学者たちが、当時ヨーロッパ文明の中心であったイタリア半島に逃れ、彼らによりギリシャの芸術や哲学がもたらされた。

 それはすなわち、人生の最高原理は欲望を禁圧することでなく、欲望を充足することであるというにあったのである。出来るだけ美味い物を食べ、また出来るだけ綺麗な衣服を着、そしてその欲望を満足させるということが最高原理であると説いたのである。

 かくして、人間はその俗的な欲望を完全円満に充足することによって、人生の真善美が完成せらるるという、新しい指導原理がヨーロッパへ入ってきたのであるが、この考え方は、従来の考え方が神本位であったのに反し、人間本位で、禁欲主義に代わるに、充欲主義をもってしたものであった。当時のヨーロッパ人はこの従前と全く相反する新しい学説、新しい教説に接し、ここに初めて真に活々したフレッシュな感じを得るようになったのである。

 しかし、物欲に目覚めたヨーロッパ人にとって、不幸にもヨーロッパの地は金銀も産出せず、農産物にも恵まれない不毛の地でした。そこで東洋のように物資の豊富な地域を見いだそうと、
15世紀末からの大航海時代に入った。1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見、1498年のバスコ・ダ・ガマのアフリカ大陸南端の喜望峰を巡ってのインドへの航路発見が相次いでなされた。

 さらにそこからスペインとポルトガルによる南米征服と、現地人奴隷による銀山採掘やカリブ海諸島でのアフリカ人奴隷によるサトウキビ栽培などが始まり、それが奴隷制、そしてついには世界の植民地支配へと広がっていった。

 このヨーロッパ人による世界植民地化の動きを止めたのが、日露戦争での日本の勝利だった。そのインパクトを、中国の国父・孫文がこう語っている。

 どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えた。(中略)ところが、日本人がロシア人に勝った。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてだった。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いた。[孫文]

 「大きな驚きと喜び」とは、近代戦争でも非白人が白人を打倒できるのだ、という「驚き」と、それによって自分たちも白人の植民地支配を打ち破って、独立と自由を勝ちとることができるかも知れない、という希望だった。

 「アジアの全民族」とは決して誇張ではない。たとえば、インドの独立後の初代首相ネルーは、当時の興奮をこう語っている。

 日本の戦捷(せんしょう、戦勝)は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。(中略)五月の末に近い頃、私たちはロンドンに着いた。途中、ドーヴァーからの汽車の中で対馬沖で日本の大勝利の記事を読み耽りながら、私はとても上機嫌であった。
[ネルー]

トルコでも、当時の熱狂が伝えられている。昭和四十四年に、山口康助氏(現・帝京大学教授)がトルコの古都ブルサに泊った時、ある古老が片言の日本語を混えて、「ジャポン! ニチロ、アラガート (日本の人たちよ! 日露戦争に勝ってくれて有難う)」と、呼びかけてきた。続いて古老は、日本が日露戦争に勝った時、トルコ人は狂喜して、息子や孫に「トーゴー」「ノギ」の名前をつけ、イスタンブールの街には、「東郷通り」「乃木通り」ができた事など、語ったそうだ。

 わが国は、日露戦争の実績を持って、ヨーロッパ人支配の植民地主義を打ち破り、全人類が平等に力を合わせる「新文明」を切り開いていかなかればならない、と福澤は主張する。

 その来るべき新文明の根本原理は、全人類のことごとくが人格的平等を享受し、共働共楽共存共栄して行くということに向っていかねばならぬのである。

 かくのごとき新文明を建設するために、日本は、従来の世界歴史並びに人類史の大転機を与え、真の人類史における第一頁を血をもって開巻した当然の責任者として、須(すべから)く有色人の先頭に立ち、徹底的に白人の反省を求め、画期的大運動を続けて行かねばならないのである。

  大東亜戦争の後、アジア、アフリカの国々が次々と独立し、この「新文明」にだいぶ近づいてきた。しかし、世界各国が「共働共楽共存共栄して行く」という理想にはまだまだ到っていない。

 福澤は実業人らしく、「新文明」建設における日本の責任を果たすためには、まずは富強でなければならない、と説く。

 新文明を建設し世界人類の真の幸福を得せしむる最大責任は、全く我が日本の双肩にかかっている。されば、我が日本は、今や上下一致し、労資協調し、大いに働き、まずもって大いに富まねばならぬ。否、富むだけでは駄目だ。富むと同時に大いに強くならねばならぬのである。

 富を求めるのは、経済的繁栄のためではない。軍事費を仮に年に一億増加するとして、ために国の経済に影響を及ぼすように成っても、それは拠(よんどころ)ないことである。兵備の足らざると否とは、国の存立に関する大問題だ。国亡びて果たして山河ありや否や。況(いわ)んや、我が日本は、東洋文明を建設し、世界人類を真の幸福に導く大使命を帯びるにおいてをや。

 桃介は単に西洋文明を批判するだけでなく、これから全人類が築くべき「新文明」の理想を気高く謳い、その実現に向けて「日本民族の責任」を明快に説いている。

 いかがでしょうか、今でも決して色あせてない、史実に基づく福澤のメッセージをしっかり受け止めて、日本の世界における本来の役割を、我々は共有しなければならない、と子孫のためにも痛感します。                                               

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