東アジア・ニュースレター
海外メディアからみた東アジアと日本
第174 回

バベル翻訳専門職大学院 国際金融翻訳(英日)講座 教
中国と米国は第2回貿易協議を開き、中国によるレアアース輸出問題の解決と米側が講じた対中輸出規制の緩和で合意に達した。トーンは前向きだが内容は詳細に欠け、しかも最終的に首脳レベルで覆される可能性を残した。加えて中国はレアアース輸出許可を6カ月に制限する方針とみられ、前途は依然として多難である。
台湾には中国からの「差し迫った」脅威があるとヘグセス米国防長官が「シャングリラ・ダイアログ」で警告した。これに対しメディアは2つの疑問を呈する。中国の意図に関する評価が正しいか、同長官の姿勢が信頼に値するかである。同時にトランプ大統領は、退任後に中国が台湾を併合すると考えているとの私的な発言も紹介する。
韓国の大統領選で野党の李在明候補が当選した。メディアは、選挙では尹前大統領による戒厳例宣言への国民審判が下された、あるいは、保守と革新の交互入れ替えという投票パターンが繰り返されたなどと評する。懸念材料として、内政面で独裁色を増すことと、外交面で対米関係の今後などが挙げられている。
北朝鮮がミサイル級駆逐艦の進水に失敗した。この駆逐艦は海上移動しながら核攻撃可能な崔賢級と呼ばれる最新型多目的艦である。ただし進水に失敗したのは2号鑑で、1号艦は既に4月下旬に完成し、進水式も無事に済ませている。北朝鮮は核推進潜水艦も建造中されており、その海軍力強化努力は軽視できない。
東南アジア関係では、インドネシア政府が大規模な景気刺激策を打ち出した。今年最初の3か月間の成長率が4.9%の低水準に陥り、トランプ米大統領による32%の高関税もあり、政府が掲げる年間8%の成長率達成が困難視されているなどの背景がある。看板政策の無料給食プログラムも批判に晒されている。
インドでは、中央銀行が大幅な金融緩和策に踏み切った。背景として、トランプ高関税がもたらす不安定要因、昨年度経済成長率の落ち込み、インフレ率の低下傾向、モディ政権の2047年までに先進国の地位確立という目標達成に8%の成長率が必要などの状況がある。
主要紙社説・論説欄では、トランプ関税に係る貿易協議で米国政府が各国との交渉のなかで初めて英国と、次いで中国との第1回協議において夫々合意に達したニュースを取り上げた。
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北東アジア
中 国
☆ 米中代表、第2回貿易協議を開催
米中代表団はトランプ大統領が発動した関税政策をめぐり、5月に第1回貿易協議をスイスのジュネーブで開き、その後、第2回協議を6月9日にロンドンで開催した。第1回協議の詳細については後述の主要紙社説論説欄で観察したので、ここでは第2回協議の動向についてみていく。6月11日付ブルームバーグによれば、第2回協議で米中高官は11日、ジュネーブで合意した内容を実行に移す方法を巡る枠組みについて暫定的に合意し、両国首脳の承認待つことになった。合意の骨子は、中国によるレアアース輸出問題の解決と米側が講じた幾つかの対中輸出規制実施の緩和である。両国は今回、バッキンガム宮殿近くのランカスター・ハウスで2日間、計約20時間にわたり協議した。このうち2日目の10日は12時間余りに及んだ。米中首脳による先週の電話会談を受け、ベッセント米財務長官、ラトニック同商務長官、グリア米通商代表部(USTR)代表が中国の何立峰副首相率いる代表団との交渉に臨んだ。ラトニック商務長官によれば、中国側は米国の自動車メーカーや防衛関連企業にとって重要なレアアースの出荷を加速させることを約束した。米国側も一部の輸出規制を緩和する。両国間で最も難しい問題で2つの進展があったことを示唆している。
ラトニック長官は、記者団に「ジュネーブでのコンセンサスを実行する枠組みで一致した」と言明。トランプ大統領と中国の習近平国家主席が承認すれば、「その実行を目指す」と語った。グリア氏は、他の会合は予定されていないとしつつも両国は頻繁に意思疎通しており、必要があれば話し合うことができるとコメントした。グリア氏はまた、輸出管理やそれに関連するあらゆる問題に関し、自分が中国側と行ってきた交渉の中で「輸出管理について彼らが話したがらない会合は一度もなかった」と語った。米中は先月スイスのジュネーブで合意した内容を実行に移す方法を巡る枠組みで合意。中国商務省の国際貿易交渉代表を務める李成鋼次官は「率直で踏み込んだ」交渉が行われたとし、米中の代表団が今回の提案をそれぞれの首脳のために持ち帰ると述べた。一方で李氏は、両国が今回成し遂げた前進が信用醸成にプラスとなるよう望むとも語った。
中国国営の中国中央テレビ(CCTV)が伝えたところによれば、中国代表団を率いる何立峰副首相は11日、米中の経済・貿易協議メカニズムをさらに活用し、合意形成を進め、誤解を減らし、協力を強化すべきだと述べた。「合意履行において誠意ある姿勢を示し、対話によって得られた貴重な成果を共に守るべきだ」とも語った。前向きなトーンは、世界最大の経済大国同士の分断を懸念する投資家を安心させると考えられる。それでも詳細には乏しく、この合意も最終的には首脳レベルで覆される可能性がある。今回の協議ではまた、中国の多額の対米貿易黒字や中国が米国市場で物品のダンピング(不当廉売)を行っているとの米側の認識といった問題の解決にはほとんどつながらなかった。
今回のロンドンでの協議は、ジュネーブで行われた貿易協議で関税の一時休戦に至った際に中国政府が表明したレアアース輸出の緩和に関する約束を確実なものにするよう、トランプ政権が強く求めたことを受けて行われた。トランプ政権は中国がレアアースの供給再開を遅らせていると非難し、半導体設計ソフトウエアやジェットエンジン部品、化学品、核関連物質の対中輸出を制限する措置を講じた。ロンドンでの合意を受け、レアアース供給の緩和と引き換えにこれらの制限は解除される見通しだ。トランプ政権が対中関税賦課の根拠とした合成麻薬フェンタニルの問題についても、米大統領にとって優先事項だとグリア氏は指摘。「この問題に関し中国側の大きな進展を期待している」と話した。中国外務、商務両省にコメントを要請したが、これまでのところ返答は得られていない。
今回の発表を受けた市場の当初の反応は動意に乏しい。サクソ・マーケッツのチーフ投資ストラテジスト、チャル・チャナナ氏は「対立から協調へのシフトをマーケットは歓迎する公算が大きい」としつつも、「さらなる会合の予定がないことはまだ困難から抜け出していないことを示唆する。トランプ、習両氏による合意承認と実行次第だ」とコメントした。中国の軍事的進展にとって重要な技術を交渉材料とすることは、国家安全保障上の懸念を理由に輸出規制を正当化してきた米国にとって、大きな方針転換となる。それはまた、中国がレアアースでの優位性を利用して、最先端半導体へのさらなる規制強化に歯止めをかけることにもつながる。
USTR次席代表を務め、アジア・ソサエティー政策研究所に所属するウェンディ・カトラー氏は、米国が輸出規制で譲歩するのは「前例のないことだ」と指摘するとともに、今回の合意の脆弱(ぜいじゃく)性に言及した。具体的には、ジュネーブ合意の履行に戻るまでに2日間の協議と米閣僚3人、中国副首相1人を要したとカトラー氏はコメント。これは今後60日間の「予告編」だとし、米中の当局者は一段と広範な貿易協定の一環として、過剰生産能力や不公正貿易慣行、米国へのフェンタニル流入などの問題について合意をまとめなければならないと指摘した。
6月11日付ワシントン・ポストも、中国との新貿易合意後も米国は依然として不利な立場にある可能性が高いと指摘する。それは、米国のレアアース問題への対処よりも、中国はチップ不足の問題をうまく乗り切れるからだと述べ、米国が直面している危険性については、経済学者たちの間で幅広いコンセンサスがあると警告する。記事は、貿易情勢に関する不確実性の拡大は、グローバルなサプライチェーンに組み込まれている両国の企業にとって重荷となっていると指摘。米国は中国への先端半導体とチップの輸出を制限し、中国は自動車、戦闘機、iPhone、医療機器など多様な製品の製造に必要なレアアースの輸出を管理しており、この対立は中国をより有利な立場に置いたといえるとの専門家の意見を伝える。
すなわち、中国が規制する希土類は、今後数カ月で米国において枯渇し、米国の自動車や武器メーカーに甚大な被害をもたらすおそれがあるとし、現在の状況は、トランプ政権のこれまでの強気な姿勢とは裏腹のものとなっていると指摘する。「人々は、レアアースが必要なのはEV (電気自動車)だけだと考えているが、そうではない」「車のあらゆる部分に存在する。ワイパーを動かすモーターにもある。生産の混乱が至る所で起こるだろう。中国は本当に私たちの首根っこを押さえている」との専門家の言を紹介する。また防衛分野でも同様の事態が起きる可能性があると述べ、中国は米軍の戦力をいつでも停止できるという信号を発信しようとしていると報じる。そのうえで、中国には自信が漂っており、トランプ大統領とその支持者にとって関税は「グローバルな貿易秩序の再均衡」と捉える戦略の一環とされるが、単に米国指導者の短期的な自己利益にかなう取引を成立させようとしているだけだとの関係者のコメントを伝える。
さらに6月12日付ウォ-ル・ストリート・ジャーナルは、中国によるレアアース対米輸出許可は6カ月に制限されるようだと次のように報じる。関係者によると、中国が貿易枠組みの一環として直ちに承認を開始するとみられる一時的なレアアース輸出許可は、主にEV、風力タービン、家電製品、軍事機器の製造に使用されるものが対象となる。ただし中国は米国の自動車メーカーや製造業者向けのレアアース(希土類)輸出許可に6カ月の制限を設ける方針だ。事情に詳しい複数の関係者が明らかにした。これにより貿易摩擦が再び激化した場合、中国が影響力を行使できるようになる一方、米国の産業界にとっては不透明感が高まる。中国側がレアアース輸出許可を一時的に復活させることで同意したことは、今回の協議で主要な進展の一つとなったが、6カ月の制限を設けたことは双方が再び容易に緊張を高められる手段を保持していることを示している。
米国側はこれと引き換えにジェットエンジンとその関連部品や、天然ガスと石油掘削の副産物であるエタン(プラスチック製造に重要)などの対中輸出規制を一部緩和することで合意した。しかし事情に詳しい関係者によると、米国は先端半導体や人工知能(AI)などの戦略的分野で中国の野心を実現しかねない重要な米国技術については、アクセスを阻止する措置を撤回する考えはない。米中間の貿易戦争は、ここ数週間で関税から離れ、相手国が切実に必要とする素材や製品に対する規制へと方向を変えている。しかし、関税をどうするかは今後の協議でより大きな役割を果たす可能性が高い。先月にスイスのジュネーブで至った暫定合意を支持する枠組みの詳細は現在も調整中だという。ホワイトハウスはコメントを控えた。
以上のように、ロンドン合意の骨子は中国によるレアアース輸出問題の解決と米側が講じた幾つかの対中輸出規制実施の緩和である。トーンは前向きだが内容は詳細に欠け、しかも最終的には首脳レベルで覆される可能性がある。加えて中国はレアアース輸出許可に6カ月の制限を設ける方針とみられ、また合成麻薬フェンタニルの問題は米国にとって優先事項だとされながら、中国外務、商務両省はコメントを避けている。今回の発表を受けた市場の反応も動意に乏しく、さらなる会合の予定がないことはまだ困難から抜け出していないことを示唆するとされ、ロンドン合意は今後60日間の「予告編」だと市場関係者はコメントしている。こうしたなか、米中当局者は今後、関税率そのものの問題に加え、中国の過剰生産能力や不公正貿易慣行、米国へのフェンタニル流入などの問題について、一段と広範な合意をまとめなければならない。米中貿易協議は第2回を終えても、依然として前途は不透明で多難と言わざるを得ない情勢にある。
台 湾
☆ 差し迫った脅威を米国が警告
台湾には「差し迫った」脅威があると、米国のピート・ヘグセス国防長官が警告し、戦争は世界にとって壊滅的な打撃になると述べたと5月31日付エコノミスト誌が報じる。記事によれば、へグセス長官は、米シンクタンクの国際戦略研究所がシンガポールで開催する防衛機関会議「シャングリラ・ダイアログ」に初めて出席し、演説を行った。最近まで米国は、中国の台湾侵攻は「差し迫ったものでも、避けられないものでもない」と述べ、同盟国を安心させてきたが、ヘグセス国防長官は5月31日、中国の脅威は「差し迫っている」と劇的に転換し、攻撃があれば米国との戦争につながることを示唆した。中国はアジアで「覇権力」を求めているが、アメリカは「この重要な地域から追い出されることはなく、同盟国やパートナー国が従属したり威嚇されたりすることは許さない」と語った。
ヘグセス氏の強硬発言は、中国を威嚇し、ドナルド・トランプ大統領の「アメリカ第一主義」の外交政策を懸念する同盟国を安心させることを目的としているようだ。しかし、この発言は2つの疑問を投げかけた。第1は、中国の意図に関する評価が正しいかどうか、第2は、トランプ政権の不安定な行動や同盟国に対する軽蔑的な態度を考えると、その強硬発言やアジアの同盟国を団結させる取り組みが信頼に値するかどうかである。演説は、アジアに関する米政権の立場を最も明確に表している。同長官は、中国の軍事力増強、台湾周辺での威嚇的な軍事演習、フィリピンに対する「グレーゾーン」での威圧的行為を指摘。中国は「インド太平洋地域の力関係を変えるために軍事力を使用する可能性を真剣に準備している」と語った。2027年までに台湾を制圧する能力を確立し、「本物の事態に備えた訓練を行っている」と指摘し、日本からマレーシアまで続く「第一列島線」における現状を変更するための武力や圧力の使用は「受け入れられない」と強調した。台湾侵攻は「インド太平洋地域および世界にとって壊滅的な結果をもたらすだろう」と述べ、聴衆を驚愕させた次の言葉も付け加えた。「中国がもたらす脅威は現実のものであり、差し迫っている可能性がある」。
ヘグセス氏の評価は正しいのだろうか。実際、台湾は不確実性の霧に包まれている。昨年、米国当局者は、中国政府の目標年である 2027 年の重要性を軽視し、侵攻の危険性は後退したと示唆した。彼らは、中国では水陸両用の上陸用舟艇が不足しており、中国人民解放軍(PLA)の上層部で腐敗撲滅運動が繰り返されていることを挙げ、習近平国家主席が指揮官たちに信頼を置いていないと示唆している。また欧米の防衛当局者は、台湾への差し迫った攻撃を示す情報はないと述べている。しかし、へグセス氏は、中国の軍事演習は規模、頻度で大きく拡大しているため、離島占領や封鎖などの限定的な攻撃はいつでも発生する可能性があると指摘する。この会議に参加した中国人民解放軍国防大学の胡剛峰少将は、ヘグセス氏のコメントは中国に対する「根拠のない非難」であると否定し、この地域における「挑発、分裂、対立の煽動」を目的としたものだと仄めかした。
2つ目の疑問は、ヘグセス氏の米国による介入の警告が信頼できるかどうかである。紛争に揺れる世界で平和を追求すると主張する政権が、中国の脅威に立ち向かうよう緊急に呼びかけたことは注目に値する。トランプ大統領は、台湾がチップ産業を「盗んだ」と非難している。台湾の強固な擁護者、エルブリッジ・コルビー国防次官(政策担当)でさえ孤立主義に傾倒しているようで、今年、中国による台湾侵略はアメリカにとって「存在を脅かす」脅威ではないと発言していた。今年初め中国に145%の関税を課した後、トランプ大統領は譲歩した。このことは中国の台湾に対する強硬措置に対して、壊滅的な経済制裁を課す気がないことを示していると思われる。さらに一部の中国代表団は、ヘグセス氏に中国について発言する権限がないことを匂わせている。中国以外の代表団も同様の疑念を抱いているかもしれない。ヘグセス氏は、元州兵少佐でフォックスニュースのトークショー司会者でもあった。政権内の多くの人々と同様、同盟国に対する彼の姿勢は揺れ動いている。2月、ロシアのウクライナが攻を撃退するために 3 年間にわたって欧米諸国が取り組んできた努力の多くを否定し、欧州諸国に衝撃を与えた。ウクライナは奪われた領土を取り戻すことも、NATOに加盟することもできないと語っている。また同盟国には防衛費が低いと非難している。
しかしシンガポールでは、彼は西側諸国とアジアの同盟国双方と再び連携を深め、複数の当局者は好意的な聴取姿勢に驚かされている。コブリー氏の以前の主張に似た立場を採用し、台湾は「拒否による抑止」を通じて防衛すべきだと主張した。つまり、中国軍の侵攻を十分にコスト高とするため、移動式防衛兵器を豊富に配備するということである。アメリカの同盟国ネットワークは中国が「羨む」優位性であり、アンクル・サムの「戦力倍増要因」だと称賛した。予想外のことだが、彼は防衛費を GDPの2%から3.5%まで急増させたヨーロッパ諸国を模範とすべきだと述べた。しかし、シンガポールでの同盟国に対する彼の親しみの姿勢には限界があった。ヘグセス氏は、ヨーロッパはインド太平洋地域、特に英仏伊の空母による海軍パトロールで関与すべきではないと述べた。「NATOのNAは北大西洋を意味し、欧州の同盟国は、大陸における比較優位を最大限に活用すべきだ」と考えている。この立場は、軍事行動による中国の政治的コストを高めるとして、欧州の関与を密かに歓迎している米国の軍部指導者たちとは対立する。
トランプ政権の立場における緊張と矛盾は、シャングリラのもう一人の主要講演者、エマニュエル・マクロン仏大統領の発言によって浮き彫りになった。マクロン氏は、貿易を促進し、世界秩序を支援し、アメリカと中国による「いじめ」を回避するためにヨーロッパとアジア諸国間の「行動連合」を提唱した。マクロン氏は、アジアで地域戦争が発生した場合、ヨーロッパは軍事的な支援をほとんど提供しないだろうと認めた。「中国が大規模な作戦を決定した日、あなたは初日から介入するだろうか。非常に慎重になると思う」。しかし、彼は「誰もが非常に慎重になるだろう」と付け加えた。つまり、アメリカも例外ではないということである。ヘグセス氏は、トランプ大統領が「自分の任期中は、共産主義中国が台湾を侵略することはない」と約束したと主張している。情報筋によると、彼は大統領の私的な発言を引用したものだが、重要な条件、すなわちトランプ大統領は自分が退任した後、中国が台湾を併合するだろうと考えているという部分を省略していたとのことである。
以上のように、ヘグセス米国防長官が台湾には中国からの「差し迫った」脅威があると、「シャングリラ・ダイアログ」での演説で警告した。記事は、この発言に対して2つの疑問を呈する。第1は、中国の意図に関する評価が正しいかどうか、第2は、同長官の姿勢が信頼に値するかどうかである。第1の問いに対して記事は、台湾は不確実性の霧に包まれていると述べ、明確な見解を示さない。第2の問題に関しては、同盟国に対する彼の姿勢は揺れ動いている、あるいは、同長官には中国について発言する権限がないなどと問題点を指摘するが、シンガポールでは中国の侵攻を十分にコスト高とするために移動式防衛兵器を豊富に配備するなどと突っ込んだ発言をしていると紹介する。最も注目すべきは記事の最後の部分、すなわちトランプ大統領は自分が退任した後、中国が台湾を併合するだろうと考えているとの私的な発言である。その意味では、脅威は目前ではないとしても、その確度は極めて高いと言わざるを得ないだろう。
韓 国
☆ 大統領選で野党の李在明候補が勝利
6月3日に投開票された大統領選挙は、野党「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン)候補が当選し、与党「国民の力」の金文洙候補は敗北を認めた。今回の選挙では、尹錫悦(ユン・ソンニョル)前大統領による非常戒厳宣布に対する国民の審判という側面が色濃く出た形だと3日付ブルームバーグが報じる。それによると投票率は79.4%と28年ぶりの高水準に達し、中央選挙管理委員会によれば、開票作業終了で確定した得票率は李候補が49.4%、金候補は41.2%だった。
6月6日付ニューヨーク・タイムズは、6ヶ月間の混乱を経て国民はより良い時代を期待しているが、政治的分極化と貿易を巡る国際的な緊張により、多くの懸念が残っていると、次のように伝える。
半年間の政治的混乱を経て今週新大統領が就任し、分断された国家の統一と低迷する経済の回復を約束したことで多くの韓国人は安堵の息をついた。しかし、多くの国民には新大統領が直面する多大な課題への不安と希望が交錯している。進歩的な候補者である李在明は、長期にわたるライバルであった尹錫悦が12月に戒厳令を宣言したことで、弾劾され退陣した後の急遽行われた選挙で5年間の任期を獲得した。「ようやく国を取り戻し始めたような気がする」と、ソウルで美容業界のオフィスワーカーとして働く34歳のイ・ヘヨンさんは述べる。イさんは、新大統領が「ユンを排除するほど強ければ、国を正しい軌道に戻す力もある」と信じていると語った。彼女の投票時の主な懸念は国家の分断拡大だった。李氏は選挙キャンペーン中、この分断を癒す必要性を繰り返し強調した。「共存、和解、連帯の架け橋を築く時が来た」と李氏は述べた。李氏はまた、韓国を数十年前、軍事政権の時代に引き戻そうとした尹氏とその仲間たちを罰すると誓った。ただし、今週、尹氏がかつて所属していた政党が40%以上を得たという事実がこの国を統一するという李氏の決意を試すことになるだろう。
批判者に対する李氏の「攻撃的で報復的な行動」は「危険」だと、対立候補の金文洙氏に投票した経営コンサルタントのアンドルー・キム氏(29)は指摘。李氏の政策は左派的で中国や北朝鮮に友好的であり、韓国唯一の同盟国である米国との関係を危険にさらすのではないかと懸念を表明する。「李氏は、真の変化をもたらす能力を持っていない。任期満了まで現状維持を守ることを願っている」と補足する。また一部の人は、李氏が過大な権力を行使するのではないかと懸念する。与党となった共に民主党は、国会で3分の2近くの議席を占めており、彼は、事実上、反対勢力に阻まれることなく法案を可決できる、近年の歴史上最も強力な大統領の一人となっている。
多くの有権者は日常的な懸念に基づいて投票した。例えば、第1四半期に0.2%縮小した経済を最も適切に管理できる人物という観点である。戒厳令の発令と、米政府が鉄鋼と自動車産業(韓国経済の主要な2つの分野)に課した関税の発表後、通貨と株式市場は急落した。ソウル在住の42歳の電子機器製造工場労働者のパク・ヒジュン氏は、長時間労働にもかかわらず、十分な賃金や法的保護が得られないことに疲れていると語る。パク氏は、法的抜け穴によって慢性的な過重労働が起き、それが週80時間を超える場合もあると批判する。「李氏はかつて私たちの一員だった。私たちのニーズを理解している」とパク氏は言う。李氏は政治家としての数十年に及ぶキャリアの前に工場労働者として働いていた経験がある。ソウル在住で25歳大学生のイ・ジュンソン氏は、李氏の当選に興奮していると述べ、新大統領が国民のニーズに対してより配慮すると期待していると語った。しかし、彼は韓国が国際舞台で直面する課題、例えば李氏就任前に始まった米国との関税交渉を新政府が成功裡に継続できるかどうかについて懸念を示した。自分と同世代の多くの就職機会が限られていることや、住宅所有の展望が暗いことに不安を感じていると述べる。しかし、韓国がより安定した政治環境に戻る可能性に励まされていると語る。「政府が民主主義に導かれた社会への回復を支援してくれることを願っている」。
他方、米共和党系で右派メディアのウォ-ル・ストリート・ジャーナルは6月4日付社説で、大統領選で韓国民が「左旋回」したと以下のように論じる。韓国民は長年、保守から革新へ、革新から保守へと投票先を変えてきたが、今回もそのパターンが踏襲された。革新系候補の李在明氏に大敗した保守にとっての教訓は、政治的クーデターを試みることで有権者の支持を得られると期待してはならない、ということだ。今回の大統領選は、2027年に実施されるはずのものだった。しかし、昨年12月に非常戒厳を宣言した尹錫悦大統領が弾劾・罷免されたことで、選挙が前倒しされた。尹氏は、自身の政策が国会で支持を得られないことにいら立ち、独裁者の手法を借用することを決めたが、それは悪手だった。 当時、国民は非常戒厳に抗議するため国会に駆けつけた。国会議員らは、宣言から数時間で非常戒厳を解除に追い込んだ。3日の大統領選の結果は、民主主義の反撃だった。保守系与党「国民の力」の金文洙(キム・ムンス)候補に勝利のチャンスはなく、得票率41%対49%で李氏に敗れた。
李氏は「韓国のバーニー・サンダース」と呼ばれることもあり、その国内政策は記憶する限り最も左翼的だろう。同氏が所属する「共に民主党」は国会の300議席のうち171議席を支配しているため、余裕をもって国政運営に臨めると思われる。李氏は週4日労働制への移行を目指し、4日半労働から始めたいと考えており、休暇や病気休暇の拡大も望んでいる。李氏はまた、2040年までに国内全ての石炭火力発電所を閉鎖し、天然ガスの使用も減らす意向だ。韓国は今や裕福な国になっており、ほとんどの豊かな民主主義国家と同様に福祉国家への要求や文化的な懸念という問題を抱えている。米韓関係にも何らかの圧力がかかる可能性がある。李氏は同盟関係を支持すると述べているが、貿易相手国である中国との良好な関係も望んでいる。韓国英字紙コリア・ヘラルドは今年3月、「台湾海峡で、あるいは中台間で何が起きようとわれわれに何の関係があるのか」との李氏の発言を伝えた。
韓国には依然、2万8,500人の米兵が駐留しており、その多くが北朝鮮の兵器の射程内にいることを考えると、それは賢明な発言ではなかった。トランプ米大統領は長年にわたって、朝鮮半島における米軍のプレゼンスに疑問を投げ掛けており、今回の大統領を目前に控えた5月下旬、トランプ政権が在韓米軍の縮小を検討しているとの情報がリークされた。トランプ氏の関税を巡る米国との貿易紛争は、こうした安全保障上の判断に影響を及ぼす可能性がある。そうなれば、北東アジアからの米軍撤退を熱望している北朝鮮・中国・ロシアの枢軸が喜ぶのは確実だ。
これまでの韓国の革新系政権は、商業的取引や「人道支援」などを通じて、北朝鮮との関係改善を追求することが多かった。人道支援は、権力を維持したい政権の懐に入ることが避けられない。こうした「太陽政策」が北朝鮮国民に対する圧政や韓国に対する軍事的敵意の緩和につながったことは一度もない。そしてトランプ氏は、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党総書記との間で核と安全保障に関して何らかの合意を結ぶことを望んでいる。つまり李氏はその点で米大統領と共通している可能性がある。
以上のように、米民主党寄りで左派系メディアのニューヨーク・タイムズは、今回の選挙では尹錫悦前大統領による非常戒厳宣布に対する国民の審判という側面が色濃く出たと述べ、李新大統領の登場を好意的に報じる。李氏は政治的分断を癒す必要性を強調し、「共存、和解、連帯の架け橋を築く」と説き、圧勝したと伝える。確かに投票率は79.4%と28年ぶりの高水準に達し、得票率は李候補が49.4%と金候補を圧倒した。ただし、外交政策は左派的で中朝に友好的であり、唯一の同盟国である米国との関係を危険にさらすのではないか。あるいは、反対勢力に阻まれることなく法案を可決できる近年の歴史上最も強力な大統領の一人となったことで独裁色を増すのではないかとの懸念を伝える。
これに対し米共和党系で右派のウォ-ル・ストリート・ジャーナルは、大統領選の結果は民主主義の反撃だったが、長年、保守から革新へ、革新から保守へと投票先を変えてきた国民の投票パターンが今回も踏襲されたと指摘する。また李氏の政策として、週4日労働制への移行、石炭火力発電所の閉鎖などを挙げ、富裕国になった韓国は他の豊かな民主主義国家と同様に福祉国家への要求や文化的な懸念という問題を抱えていると指摘する。確かに李・新大統領は与党が国会で主導権を握ったために大胆な政治を遂行できる立場にたった。それだけに、その外交政策が注目される。特に台湾海峡や中台関係に関する発言や北朝鮮寄りの「太陽政策」の展開動向、関税問題でトランプ米政権とどのような交渉を行うのかに注目したい。
北 朝 鮮
☆ 軽視できない海軍近代化計画
北朝鮮の海軍近代化計画は、先月後半に新戦艦が就役時に転覆するという屈辱的な失敗に終わったと、6月6日付ニューヨーク・タイムズが次のように報じる。事故から2週間後の6月5日、北朝鮮の東北部沿岸の清津(チョンジン)港で470フィート(約143メートル)の艦艇が垂直な状態で確認された。船は適切に発進できなかった船台から約580フィート離れた場所で浮いていた。この艦を浮上させるため、金正恩指導者の「成否を分ける」というスローガンの下で働くエンジニアたちは、5,000トンの崔賢(チェ・ヒョン)級駆逐艦を簡単に持ち上げる機械が不足していたため伝統的な解決策を採用した。アナリストと衛星画像によると、大きな風船を使用し、数百人の作業員を動員したのである。ソウルを拠点とする韓国統一研究院の北朝鮮軍事専門家、ホン・ミン氏は、韓国を含む先進国であれば、エンジニアが巨大なクレーンを搭載したバージを使用して船を吊り上げ、正しい位置に戻す方法を採用しただろうと述べた。北朝鮮の悲運な軍艦の修復作業に従事したエンジニアたちは、そのような現代的な機械や資源を持っていなかったようである。
スティムソン・センター(米国シンクタンク)の研究機関「38 North」が発表した報告書で、アナリストたちはこの作業が「手作業によるプロセス」だったとし、この手作業のプロセスは機能したようだと指摘する。5月29日の衛星画像には、船体に接続されたケーブルの列に沿って桟橋に数百人が並んでいる様子が映っており、人力で船を垂直に起こす作業を開始したことが示唆されている。また、船体の上部には浮力を増やすため、それぞれ約16フィート(約4.9メートル)の長さの気球型バルーンが20個以上配置されていた。アナリストたちは、ゴム製の浮き袋がエンジニアがケーブルを船体に巻き付ける際にケーブルを浮かせ続けるために使用された可能性もあると述べる。さらに専門家は、船の失敗した発射後の位置が主要な障害だったと指摘する。船首が船台に引っかかったままだったため、陸上で転がすことは金氏の海軍艦隊近代化と拡大計画の誇りである駆逐艦にさらに損傷を与える可能性があり、このリスクを考慮した可能性が高いとされている。ホン氏は、浮きクレーンが船の船首を吊り上げながら人間が船の残りを引きずって直立させた可能性があると語る。浮遊する戦艦の衛星画像には、船の船首があった付近にクレーンバージが写っている。
金曜日に北朝鮮は、船が検査中で沿岸を42マイル上流の羅先(ラソン)まで移動し、ドライドックで7日から10日間修理される予定だと発表した。国営メディアは「駆逐艦の完璧な修復は、今月末の労働党会議前に必ず完了する」と述べた。韓国の専門家は同艦の航海適性を疑問視している。通常、軍艦は正式に海軍に引き渡される前に数ヶ月の試験航海を経るが、北朝鮮は4月、西海岸の造船所で初のチョ・ヒョン誘導ミサイル駆逐艦を成功裏に起工した後、数日後に宣伝目的で同艦からミサイルの試験発射を開始した。退役した韓国海軍のチョイ・イル大佐は、転覆した戦艦の事件が金氏にとって大きな屈辱だったと語る。「2隻目の駆逐艦の全プロセス——横倒しで進水し、横倒しになったまま、北朝鮮が岸辺から人間を動員して船を垂直に引き上げる——は、彼の海軍を沿岸部隊から外洋部隊へ転換する努力における障害を露呈した」と指摘する。
以上のように、北朝鮮は今般ミサイル級駆逐艦の進水に失敗し、金総書記の面子を損なった。この崔賢級と呼ばれる駆逐艦は、海上で移動しながら核攻撃も可能な北朝鮮の最新型多目的駆逐艦で抗日独立運動の英雄とされる崔賢にちなんで名づけられた。今回は2号鑑が進水に失敗したが、既に1号艦を4月25日に南浦(ナンポ)造船所で完成させ、進水式も無事に済ませている。4月30日には金総書記が視察するなか、初の武装試射を実施したと報じられている。このほかにも北朝鮮は核推進潜水艦の建造にも着手したとみられており、駆逐艦進水事故のニュースで北朝鮮の海軍力強化の努力を軽視してはならないだろう。
東南アジアほか
インドネシア
☆ 大規模刺激策の導入に動く政府
商品価格の低下と貿易摩擦のため、東南アジアで最大のインドネシア経済への懸念が高まるなか政府が大規模な景気刺激策を打ち出したと、6月5日付フィナンシャル・タイムズが伝える。記事によれば、インドネシア政府はコモディティ価格の低下と深まる貿易摩擦が経済に与える打撃を懸念し、成長鈍化を食い止めるため消費者支出を促進する大型景気刺激策を導入した。4日からインドネシアは2ヶ月間、数百万世帯を対象に公共交通料金の割引と賃金補助を導入する。また、最も脆弱な層を対象に高速道路料の割引と社会支援の追加も実施する。
この包括的刺激策の総額は24.44兆ルピア(約15億ドル)と見込まれている。財務大臣のスリ・ムルヤニ・インドラワティ氏は、これらの措置は学校休暇期間中の旅行を促進し、家計消費と成長を後押しする目的だと説明し、「第2四半期の経済成長率が5%近辺で維持されることを期待している」と述べる。この措置は、インドネシアが今年5%の経済成長を達成できるかどうかへの疑念が高まる中で打ち出された。政府は新型コロナウイル大流行を除けば、過去10年間一貫してこの成長率を維持してきた。今年の最初の 3ヶ月間の成長率は 4.9%で3 年以上ぶりの低水準となった。ニッケル、石炭、パーム油などのコモディティの世界最大の輸出国であるインドネシアは、激化する世界的な貿易戦争の圧力に直面している。
他方、インドネシアはトランプ米大統領により 32%の関税措置の対象となっている。7月までその実施は延期されており、インドネシア政府は、この関税引き下げについて米国と交渉中であり、貿易黒字削減のために米国製品の輸入増加を約束している。国民の購買力から小売業、自動車販売に至るまでインドネシアの経済指標は減速傾向にあり、プラボウォ・スビアント大統領が掲げる年間8%の成長率達成という目標は困難となっている。また、プラボウォ氏が年間280 億ドルの費用が見込まれる、280 億ドルの費用が彼の看板政策である無料給食プログラムに資金を振り向けるため、インフラなどの分野における政府支出の削減も成長に打撃を与えている。プラボウォ氏は、この給食プログラムと関連する厨房投資、物流が地域経済を活性化し、全国的に波及効果をもたらすことを期待している。
1月に開始されたこのプログラムは、完全実施されると世界最大級の無料給食プログラムとなり、毎日8,200万人以上の児童と妊娠中の母親に給食を提供することになる。元軍人のプラボウォ大統領は目標達成に楽観的だが、同国の中央銀行は年間GDP予測を繰り返し引き下げ、最新の成長率見通しは4.6~5.4%となっている。 インドネシア銀行は今年、金利を50ベーシスポイント引き下げ5.5%に設定し、6月の会合で再び借入コストを引き下げる見込みである。エコノミストらは、最新の刺激策が成長率を5%に押し上げるには不十分だと指摘する。「第2四半期と第3四半期にはGDP成長率がさらに4.7~4.8%に減速すると予想している」とバンク・オブ・アメリカ関係者は述べる。
メイバンク・インベストメント・バンキング・グループのエコノミスト、ブライアン・リー・シュン・ロン氏は、刺激策が低所得世帯の購買力を向上させるものの、全体的な消費者需要への影響は 控え目なものになると指摘する。「不安定な経済と雇用市場が続くなかで消費者心理は依然として脆弱であり、世帯が支出拡大をためらう可能性が高い」と語る。「経済を支え、成長モメンタムの低下を食い止めるためには、特に貿易が下半期に弱含む見込みであることから、さらに拡張的な金融・財政措置が必要となろう」と補足する。
以上のように、政府が大規模な景気刺激策を打ち出した。インドネシアはパンデミック時を除き、過去10年間一貫して5%の成長率を維持してきたが、今年は最初の 3ヶ月間の成長率が4.9%の低水準となった。またトランプ米大統領により32%の関税措置の対象となっており、プラボウォ・スビアント大統領が掲げる年間8%の成長率目標の達成は困難となっている。しかも、政府が看板政策として掲げる無料給食プログラムに資金を食われ、インフラ分野への政府支出削減が成長に打撃を与えている。中央銀行は政策金利を50ベーシスポイント引き下げ5.5%に設定し、再引き下げの構えだが、年間GDP予測を最近4.6~5.4%に引き下げている。エコノミストらは、最新の刺激策が成長率を5%に押し上げるには不十分だと指摘している。インドネシア経済は、いわば袋小路に入っている。看板政策の見直しが欠かせない状況になったと言えよう。
インド
☆ 中銀、大幅利下げに踏み切る
インド準備銀行(中央銀行)が6月6日、政策金利と預金準備率の大幅引き下げに踏み切った。同日付ブルームバーグは、利下げは景気刺激を狙って予想を超える大幅なものとなったと報じる。記事によれば、貿易摩擦などで成長見通しに不透明感が漂うなか、マルホトラ総裁率いる6人から成る金融政策委員会は指標のレポ金利を0.5ポイント引き下げ、5.5%にすることを決定した。3会合連続の金融緩和となり、ブルームバーグのエコノミスト34人を対象とした調査では、0.5ポイントの利下げを見込んでいたのは1人だけだった。預金準備率も3%に引き下げたが、予想は4%だった。ただし金融政策のスタンスは緩和的から「中立」に変更した。これを受けて、インド国債相場は上げ幅を縮小した。
同総裁はムンバイでのスピーチで、インフレ率が目標を大きく下回る水準に「軟化」し、短期見通しも物価が持続的に目標水準に収れんするとの確信を中央銀行に与えていると述べた。「インド経済の構図は力強さと安定性、機会だ」と指摘し、インドは現在も急ペースで成長しており、「さらに高い成長率を目指している」と語った。今回の利下げは、昨年度(2024年4月-25年3月)の経済成長率が6.5%に低下したことを受け、景気浮揚策の期待が高まる中で実施された。トランプ米大統領の関税政策に起因する貿易摩擦の激化や世界的な景気減速への懸念から、インドが引き続き最も成長ペースが速い主要経済国としての地位を維持するには、追加緩和が必要になる可能性もある。消費者物価の伸び鈍化は、内需を押し上げる政策に中央銀行が重点を移す余地を与えている。インドの総合インフレ率は過去3カ月連続で中銀目標の4%を下回り、先行きも良好とみられている。
同じく6日付フィナンシャル・タイムズも、インド準備銀行が景気浮揚のため予想以上の利下げを行ったと次のように伝える。インド中央銀行は、インフレに対する懸念が和らぐ中、融資を促進し景気を下支えすることを期待して利下げ幅を予想以上に拡大、基準レポ金利を0.5%引き下げ5.5%とし、銀行が準備金として保有しなければならない現金準備率を100ベーシスポイント引き下げ3%とした。準備銀行は今年、3回連続で基準金利を1%引き下げたことになる。この動きは、準備銀行が2026年3月までの年間インフレ見通しを4%から3.7%に引き下げたことに伴うものだ。マルホトラ総裁は、「世界情勢が依然不透明ななか、物価の安定が続いており国内成長の重視が一層重要になっている」と指摘。RBIのスタンスも「緩和的」から「中立的」に変更したと付け加えた。「従って、本日の金融政策措置は、成長をより意欲的な軌道に押し上げるための一歩と見なすことができる。
トランプ大統領は、7月までに貿易取引の準備が整わなければ、インドからの輸入品に26%の関税を課すことを計画している。インド経済は、輸出依存度の高いアジアの近隣諸国と比べて国内重視の傾向にあるが、インド政府は米国との協議の中で、さまざまな商品の関税の大幅引き下げを提案している。インドでは食品価格が低下し、インフレが冷え込んでいるため準備銀行による景気浮揚策の余地が広がっている。4月の消費者物価指数は前年同月比3.2%と、約6年ぶりの低水準となった。パンテオン・マクロエコノミクスのチーフ・エマージング・アジア・エコノミスト、ミゲル・チャンコ氏は、準備銀行は8月の次回会合で「様子見」を決め、年明けにさらなる利下げに踏み切ると予想している。
金曜の利下げは、インド経済の回復を示した先週の公式データを受けたものである。3月までの3ヵ月間のGDP成長率は前年同期比7.4%で、前四半期の6.4%から上昇した。しかし、この数値は3月末までのインド会計年度における相対的な景気低迷も明らかにした。年間GDPは前年の9.2%から6.5%に落ち込んだ。これはインド企業全体の幅広い減速と消費の低迷を受けたものである。インドは主要国の中で最も急速に経済が拡大しているが、ナレンドラ・モディ首相が掲げる「独立から100年後の2047年までに先進国の地位を確立する」という目標を達成するためには、少なくとも8%の成長が必要だと多くの専門家は考えている。昨年、景気減速が明らかになって以来、準備銀行は利下げと流動性緩和策のサイクルを開始している。マルホトラ総裁は、タカ派のシャクティカンタ・ダス氏が2期務めた後、12月にモディ政権によって抜擢されている。
以上のように、昨年末モディ首相に抜擢されたマルホトラ中央銀行総裁が大胆な金融緩和策に踏み切った。背景には、トランプ米政権の高関税政策がもたらす不安定要因、昨年度経済成長率の低下、そしてインフレ率の連続的軟化、さらにモディ政権の2047年までに先進国の地位確立という目標達成には少なくとも8%の成長率が必要という状況などが背中を押したとみられる。中央銀行は同時に預金準備率も引き下げ、年明けにさらなる利下げに踏み切ると予想されているが、こうした緩和策だけで目的を達せられるのかはわからない。引き続きモディ政権の財政を含めた経済政策を注視したい。
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主要紙の社説・論説から
関税交渉で英中と合意したトランプ米政権―予断を許さない中国との最終決着
関税問題で各国と交渉中のトランプ米政権は5月8日と14日、英国と中国とそれぞれ合意に達した。今回は、この英中と合意に達した貿易協定に関する主要メディアの報道と論調を観察した。以下はその要約である。(筆者論評は後述の「結び」を参照)。
まず英国と合意に達した協定について、5月8日付ワシントン・ポストは「Trump announces trade pact with U.K. in first deal since tariffs (トランプ大統領、英国との貿易協定を発表、 関税後初の取り決め)」と題する記事で次のように報じる。トランプ大統領は8日、英国との新貿易協定を発表した。世界的な貿易戦争のダメージを軽減するための世界各国との協定の第一弾になるとトランプ大統領はアピールした。ハワード・ラトニック商務長官と他の政権高官は、この協定は米国の輸出に50億ドルの経済的機会をもたらすと述べ、英国は関税やその他の国内規制を引き下げる一方で、エタノール、牛肉、飛行機、その他の製品の購入を増やすことに同意したと述べた。トランプ大統領は、すべての国に適用される10%の最低関税は英国に適用されたままだが、自動車など特定の英国輸出品は高い関税を免れると語った。ジェットエンジンと航空機部品も関税引き下げの対象となる。また両国は安価な中国からの輸入品に対抗するため、鉄鋼とアルミニウムの関税引き下げに合意した。発表は、米国の貿易政策に対する不透明感から変動する株式市場に狼狽する投資家を安心させるためにトランプ当局者が強い圧力に直面しているなかで行われ、合意のニュースで株価は上昇し、高値で終えた。
しかし専門家によれば、大きな逆風が残っている。米国は現在、最大の貿易相手国のひとつである中国に145%以上の関税をかけており、早期解決の見込みはなさそうだ。批評家たちはまた、「取引」の意義についても懐疑的な見方を示している。ブルック・ロリンズ農務長官は木曜日の朝、Fox Businessに出演し、この協定を「概念的なもの」と評し、近々イギリスに行き、詳細を詰める予定だと述べた。ホワイトハウスが配布した3ページのファクトシートには、いくつかのハイレベルな合意事項が記載されていたが、協定が実際にどのように機能するかについての詳細はほとんどなかった。自由貿易協定は何千ページにも及ぶことがあり、通常、自動車のブレーキランプの正確な位置などの規制をめぐり、技術専門家の間で数ヶ月から数年にわたる骨の折れる交渉の産物である。エコノミストたちは、この協定は米国経済にほとんど影響を与えないだろうとしており、多くのエコノミストが今年後半には景気後退に転じると予想している。オックスフォード・エコノミクスのマイケル・ピアース副主席エコノミストは、英国との貿易における自動車、鉄鋼、アルミニウムの関税引き下げは、アメリカ人にとって「限定的な救済」をもたらすかもしれないが、アメリカの10%の一律関税が残っている限り、これらの措置が大きな打撃を与えることはないだろうと述べた。
次いで5月9日付ウォ-ル・ストリート・ジャーナルは、「With U.K. Deal, U.S. Signals That 10% Tariff on World Is New Baseline (日本版記事:米英通商合意、対世界10%関税が新基準に)」と題する論説記事で、次のように論じる。対米貿易収支が赤字で米国の工業製品を大量に購入し、自国の防衛に多額の支出をしている英国は、米国との良好な通商合意を得るに値する国だった。また英国には、ドナルド・トランプ米大統領が好感を持つ指導者もいる。しかし、8日に発表された通商合意は、英国にとって良い合意ではなく悪い合意だった。英国の対米輸出には最低10%の関税が課され(鉄鋼やジェットエンジンなど一部品目を除く)、関税率は2023年の2%未満から上昇する。自動車輸出が10万台を超えると、その分に25%の関税が課される。英国は米国産牛肉とエタノールに対する規制を緩和する。1年前に、米国がその最も古く最も忠実な同盟国に10%の関税を課すと聞いたら、両国間で何か恐ろしく間違ったことが起きたと思っただろう。米英両国がこれを良い結果と評価し、株式市場もそれに同意しているという事実は、情勢がいかに大きく変わったかを物語っている。
米国は今や高関税の保護主義国となった。今後の通商合意は、障壁がどれだけ下がるかではなく、どれだけ上がるかで判断されることになる。他国はより悪い結果に終わるだろうが、それとの比較においてのみ今回の合意は英国の勝利と言えよう。米国のバイデン前政権下で通商交渉官を務めたサラ・ビアンキ氏は9日、「10%という基準は定着する。英国がゼロまで引き下げられないのであれば、他の国にそれができる可能性は極めて低い」と述べた。株価が上昇したのは、投資家がこの合意を米国の経済成長にとってよいこととみているからではなく、さらなる合意実現の可能性が高まったとみているからだ。今後数日中にスイスで会談予定の米中当局者が、両国が互いに課している3桁の関税を近く引き下げるとの期待がある。「誰が勝ったか」は的外れな問いだ。関税はコストを上昇させ、効率性を低下させ、誰もが損失を被る。その意味で、経済的な勝者はいない。関税をより高く引き上げることが「勝利」と定義されるなら、米国が勝つのは必然だった。トランプ氏は常により高い関税を望んでおり、あらゆる交渉がそれを前提条件とするためだ。
英国の目標は勝利することではなく、損失を最小限に抑えることだった。そして、トランプ氏が発表後に一時停止した他国への相互関税や、中国に対して発効済みの145%の関税よりも低い関税を確保した。これらの貿易相手国は対米貿易収支が大幅な黒字となっているため、英国がそのような高関税に直面はしなかっただろう。英国はさらに、鉄鋼や自動車、医薬品に対する分野別関税の一部適用除外も獲得した。キア・スターマー英首相は当初からわずかな交渉力しか持っていなかったが、報復しないことをほぼ約束することでその大部分を失い、トランプ氏に妥協する動機をほとんど与えなかった。英国はかつて、EU市場へのアクセス低下を相殺するために米国と自由貿易協定を締結することを夢見ていた。しかしトランプ氏が米大統領に就任すると、米国市場へのアクセス低下を最小限に抑えることが目標となった。英国がそのような高関税に直面はしなかっただろう。英国はさらに、鉄鋼や自動車、医薬品に対する分野別関税の一部適用除外も獲得した。コストは許容範囲内だろう。英国の輸出全体に米国向けが占める割合は16%にとどまるからだ。しかも、他の国々がより高い関税を課されることになれば、英国の市場シェア低下は抑えられそうだ。
スターマー首相には経済以外の動機もあった。同氏は、ロシアとの戦争が続くウクライナへの米国の支援を継続させることに熱心で、対米通商交渉が決裂すれば、その大義を損なう可能性があった。その点で今回の合意の重要な側面の一つは、米国が通商関係において戦略的利益を考慮する可能性が示唆されたことだった。世界の鉄鋼価格の低迷は中国の大規模な過剰生産能力が大きく関係している。米政府は、中国産鉄鋼の米国への迂回輸出を避ける英国の取り組みに言及し、今回の合意によって「鉄鋼とアルミニウムの新たな貿易同盟が誕生する」と述べた。バイデン前政権は鉄鋼に関する対中共同アプローチを採用するようEUへの説得を試みたが、失敗に終わっている。
次に中国との合意に関する報道と論調をみていく。5月12日付ブルームバーグによれば、米国と中国は5月のジュネーブ貿易協議で相互の関税率を一定期間引き下げることで合意した。米中間の貿易摩擦の緩和に向けた動きで両国は今後3カ月かけて相違の解消を図る時間的猶予を持つことになる。それによれば、米国は中国に対する関税率を今月14日までに145%から30%に引き下げる。これには違法薬物フェンタニルの流入に絡む関税も含まれる。中国は米国産品に対する関税率を125%から10%に引き下げる。いずれも期間は90日間。
この合意について5月12日付エコノミスト誌は、「America has given China a strangely good tariff deal (米国、中国に奇妙なほど有利な関税合意を許容)」と題する記事で以下のように報じる。
米国は少なくとも90日間、中国に先月課した「相互」関税を125%から受け入れやすい10%に引き下げることに合意した。中国も同様の措置を講じることに合意した。また希土類鉱物の販売制限など、その他の報復措置も撤回することに合意した。これまで各国に課してきた関税は引き続き維持され、その中には、合成オピオイドであるフェンタニルの原料を製造した中国を罰するためにトランプ大統領が導入した20%の関税も含まれている。その結果、関税は1月の同氏再任時よりもはるかに高くなったが、数週間前、中国が長期の貿易戦争に踏み込む姿勢を示していた頃に予想されていたよりもはるかに低くなった。今後90日間、中国は、アメリカに敢然と反抗した唯一の国であるにもかかわらず、他の国々と同様、10% の相互関税が課されるだけとなる。
市場はこのニュースを熱狂的に受け止めた。ドルはユーロに対して約1%上昇し、米国の大手企業で構成される S&P 500指数は2.6% 急謄した。香港では、多くの中国本土企業を含むハンセン指数が取引終了1 時間前に1.7%上昇した。交渉開始前、ベッセント米財務長官は、双方は話し合い内容についてだけ合意すると述べていた。週末、トランプ大統領はソーシャルメディアに「中国に対する80%の関税は妥当だ」と投稿した。土曜日に交渉チームがわずか数時間後に会場を後にした姿が見られたため、交渉が決裂したのではないかと懸念する声もあった。しかし、実際には交渉担当者は昼食のために会場を離れただけだった。では、中国の予想外の成功の理由は何だったのか、米通商代表であるジェイミーソン・グリア氏は、理由の一部を会場にあると分析している。交渉は「無味乾燥な」ホテルではなく、親しみやすい部屋と魅力的な敷地のある大使公邸で行われた。グリア氏によると、最も難しい問題の多くは、美しい木々の下にあるパティオのソファで話し合われたという。
他方、両国間の貿易状況は、はるかに厳しくなっていた。4月の中国の対米輸出は、前年比21%減少した。ハーバード大学のアルベルト・カヴァッロ氏とその共同研究者が収集したデータによると、米国の大手小売業者のウェブサイトに掲載されている中国製品の価格は、ゆっくりだが着実に上昇している。5月12日の記者会見で、ベッセント氏は、対中関税が手に負えなくなったことを認めた。4月2日、トランプ大統領は大統領が「解放記念日」と呼んだ日に中国に対して34%の「相互」関税を課すことを発表した。しかし、中国の報復措置を受けて、その関税はすぐに84%、そして125%へと跳ね上がった。その結果、両国とも望んでいなかった「禁輸措置と同等の状況」に陥ったとベッセント長官は語った。
大きな問題は、90日後に何が起こるかである。貿易協定は通常、それよりもはるかに長い交渉期間を伴う。さらに、アメリカはすでに16の他の経済圏と同時並行で協定締結に向けて交渉を進めている。ベッセント氏は、トランプ氏が解放記念日と呼んだ4月2日に中国に対して適用された34%の関税は、決して無意味なものではないことを注意深く指摘した。その間、何も変化がなければ、アメリカは一時停止期間終了後にこの関税を既定値として復活させるだろう。その可能性を未然に防ぐため、中国は、石油や大豆など、もともと他の国から購入していた商品をアメリカからさらに購入することに合意するかもしれない。またフェンタニル原料製造企業を厳しく取り締まることで、アメリカを説得しようとするかもしれない。ベッセント氏は、中国の代表団にフェンタニル担当の公安相が含まれていたことに感銘を受けた。おそらく、2つの超大国は、アメリカが相互関税を34%に戻す一方で、20%のフェンタニル罰則を廃止するという妥協案を練るかもしれない。そして、それはスイスでの休戦をより永続的な平和に変えるのに十分なかもしれない。
5月12日付ニューヨーク・タイムズは、「Tariff Truce With China Demonstrates the Limits of Trump’s Aggression (トランプの攻撃的政策の限界を浮き彫りにした中国との関税休戦)」と題する記事で以下のように論評する。
トランプ大統領が過去1ヶ月間で中国製品に3桁の関税を課し、その後撤回した決定は、米国の貿易政策の力とグローバルな影響力を示した。しかし、これはトランプ氏の攻撃的な政策の限界を再び浮き彫りにした。米国が4月初めに中国製品への関税を最低145%まで引き上げた措置は、両国間の貿易をほぼ停止させた。企業は事業ルートを変更し、中国からの輸入を減らして、ベトナムやメキシコなど他の国からの輸入を増やした。中国工場の閉鎖を余儀なくされ、一部の米国輸入業者は破綻の危機に瀕した。関税は最終的に米国企業にとって耐え難いものとなり、トランプ氏が維持できなくなった。数週間後、トランプ政権の当局者は中国に課した関税が持続不可能だと述べ、削減を目指す姿勢を示した。米中両国は週末にジュネーブで行われた貿易交渉で、互いの製品に対する高額な関税を多くのアナリストが予想していたよりも大幅に削減することに合意した。米国は中国の輸入品には以前の145%から最低30%へ、中国は米製品に対する輸入関税を125%から10%へとそれぞれ引き下げる。両国は関係安定化のための協議を行うことにも合意した。
今後の交渉でどのような合意が得られるかはまだ不明だ。しかし、今週末の交渉と過去1ヶ月の関税混乱は、中国から他の即時的な譲歩を引き出せなかった。中国は交渉継続の約束以外、具体的な譲歩を示さなかった。これにより、過去1ヶ月の貿易混乱、すなわち米国企業による対中輸入キャンセル、拡張計画の凍結、価格上昇の警告などに価値があったかどうかが疑問視されている。「ジュネーブ合意は、ほぼ完全な米国の後退を意味し、習近平の強制的な報復措置を正当化した」と戦略国際問題研究所(CSIS)の中国専門家スコット・ケネディ氏は述べる。トランプ大統領とその顧問は、米国が貿易交渉で最も強い立場にあると主張しているが、大統領の譲歩は、その立場の限界をある程度露呈した。「取引の芸術」を標榜するトランプ大統領は、中国に対する最大級の報復関税を課すことで貿易危機を人為的に引き起こし、迅速な経済的譲歩を引き出す戦略を採用している。しかし、同様の経済力と、おそらくより痛みに耐える意思を持つ経済大国と対峙するに際してトランプ氏は後退を選択し、そして中国が交渉のテーブルに着くことを「勝利」と宣言したのである。
米国当局者は、関税によって米国が中国との経済を完全に切り離すことを望んでいない、あるいはそのつもりはないことを表明した。「我々は、共通の利益があるとの結論に達した」とベッセント財務長官は記者会見で述べた。「両代表団は、どちらの側も経済の切り離しを望んでいないというコンセンサスに達した」。関税は中国にとって痛手となったが、米国経済にも悪影響を及ぼした。米国企業は、価格の上昇や製品の入手困難という形で、消費者に苦痛が及ぶことを警告し始めていた。米国の製造業者は、重要な鉱物や磁石に関する中国の輸出制限について特に懸念を示していた。他方、4月の中国の対米輸出は前年比21%減少したが、東南アジア諸国への輸出は 21%増加しており、輸出継続のための別チャネルを見出していたことがうかがえる。対中関税の一時的な引き下げは企業にとって歓迎すべき措置であるが、米国企業に重くのしかかる長期的な不確実性を緩和する効果は限定的といえる。両政府は8月中旬までに貿易合意に向けた進展を図る必要がある。
小売業者他の輸入業者は、両国間の貿易が再び活発化することを歓迎したが、この猶予措置が90日を超えて続くことを願っている。全米小売業協会(NRF)の会長兼CEOで、大手小売業者と小規模小売業者を代表するマシュー・シェイ氏は、この一時的な停止を「冬休みシーズンの商品注文の真っ最中にある小売業者や他の企業に短期的な緩和を提供する重要な第一歩」と述べる。ロサンゼルス港の執行ディレクター、ジーン・セロカ氏は、月曜日に中国に残る30%の関税は依然として相当な負担であり、関税の脅威により、米消費者の購買意欲とその購買習慣に依存する企業の意欲が損なわれたと述べた。90日間は、中国からの停止された出荷を再開しようとする企業にとって比較的短い期間だと指摘。海洋輸送船のスペースを確保し、製品を海運で輸送するまでに要する時間を考慮するとその期間が十分でない可能性があると説明した。これは依然として未踏の領域なので人々の反応を見守る必要があるとセロカ氏は言う。貿易専門家は、90日間は米国と中国の間で未解決の貿易摩擦の長いリスト、特に中国の貿易黒字の増大を含む問題で、実質的な進展を遂げるには非常に短い期間だと警告する。アジア・ソサエティ・ポリシー・インスティテュートの副会長であるウェンディ・カットラー氏は、3ヶ月は「米中間で残る数多くの争点のある貿易問題、特に中国企業の過剰な製造能力、過剰な補助金、中国企業による貨物の積み替え作業などに対処するための極めて短い期間だ」と述べ、「同様の交渉は通常、1年以上かかる」と付け加えた。
トランプ氏は、交渉の一部は中国を米国企業に「開放する」ことに焦点を当てるだろうと述べた。当局者は、中国との定期的交渉のペースを設定することに合意したと述べ、その一部は貿易バランス是正のために中国が米国製品を購入する問題に焦点を当てる可能性があると示唆した。中国はトランプ氏との2020年の貿易協定で大規模な購入に合意したが結局それを履行しなかった。トランプ政権は現在、この協定の復活に意欲を示している。ベッセント氏は月曜日のCNBCのインタビューで、2020年の協定は今後の交渉の「出発点」となる可能性があると述べ、バイデン政権が協定の履行に失敗したと非難した。ベッセント氏は上院の承認公聴会で、中国に対してより多くの米国産農産物を購入するという約束の履行を迫る意向を表明した。トランプ政権は、中国に対して「非関税」貿易障壁を緩和し、米国企業に対して市場を開放することを広く要求しているが、今回の貿易摩擦はトランプ氏の旧貿易協定の復活につながる可能性がある。他のアナリストは、トランプ政権が中国に対し、フェンタニルのプリカーサー(前駆物質)の米国への流入を阻止するよう圧力をかけ続ける可能性が高く、中国の広範な補助金制度や特定の産業における支配的地位など、他の貿易問題でも進展を図ろうとするだろうと指摘する。
5月13日付フィナンシャル・タイムズは「An uneasy US-China détente on tariffs (米中間の関税をめぐる不安定な緊張緩和)」と題する社説で、不確実性は依然として残っており、楽観主義は抑制すべきだと以下のように論じる
12日朝に発表された米中貿易戦争の3ヶ月間の緊張緩和は、世界経済にとって間違いなく朗報だ。両国は相互の関税を115ポイント削減し、継続中の貿易紛争を解決するための「協議メカニズム」の設立に合意した。中国政府はまた、アメリカに対して講じた非関税措置を「一時停止または撤廃」すると表明した。これには重要な鉱物輸出の制限が含まれている。この関係改善は、国内だけでなく、その影響を受けた国々の家庭、企業、金融市場にも好影響をもたらすだろう。しかし、楽観論は控えめであるべきだ。先週の米英貿易協定と同様、ホワイトハウスはこれを勝利として売り込んでおり、トランプ支持層にはうまく働くかもしれない。高率関税の威嚇によって、米国大統領は中国から譲歩を引き出せたのだから。トレーダーたちもジュネーブでの週末の協議が両国によるこのような急激な譲歩につながることを予想していなかった。米国と中国の株式は一段と上昇し、ドルは急騰、金は急落した。しかし、投資家は短期的なノイズは無視し、より大きな視野に焦点を当てるべきだ。
第1に、米中間の関税率は歴史的に見れば依然として高水準にある。キャピタル・エコノミクスによると、中国からの輸入品に対する米国の有効関税率は現在約40%とトランプ氏の2期目開始前より大幅に高い。しかもホワイトハウスは依然として業種別の関税を検討中だ。両国間の初期の過酷な関税率による経済的な打撃も控えている。上海とロサンゼルス間の輸送は一夜で回復はしない。第2に、3ヶ月間の休戦が持続的な停戦につながる保証はない。関税率が未確定な限り、米中間の越境貿易と投資は低迷が続くだろう。米中間の交渉が今後どのように進展するかを予測する際には、懐疑的であるべきだ。トランプ氏は長年、米中間の貿易赤字について不満を表明してきた。しかし、現在の交渉がそれを著しく是正するかどうかは不明である。なぜなら、その根本原因は経済的不均衡—中国の過剰供給と米国の過剰需要―にあるからだ。月曜日の後、トランプは90日以内に合意が成立しない場合、関税を引き上げると述べている。第3に、投資家は英国と中国の合意から過度に物事を推し量るべきではないだろうトランプ氏の関税引き下げが、最終的に米国の関税率を彼の選挙公約に近づけるという見方が浮上している。具体的には、ほとんどの国に対して10~20%、中国に対して60%だ。これはトランプ氏の大統領就任前には、ほとんどのアナリストにとって最悪のシナリオだった。それでも、投資家はトランプ氏が「より悪い結果」を「良い結果」として描くことを歓迎しているようだ。しかし、経済的不確実性は残っており、米国の最新の貿易合意には拘束力がなく、これらは十分警戒すべき理由となる。大統領の気まぐれぶりを加えると、市場の楽観主義は理解し難いものとなる。
5月13日付ウォ-ル・ストリート・ジャーナルは、「What the U.S.-China Trade Agreement Means for Markets (日本版記事:米中貿易協定、市場にとって何を意味するか)」で、次のように論評する。筆者は同紙市場担当シニアコラムニストのジェームズ・マッキントッシュ氏。
米中関税交渉が始まり、相互に課していた3桁の関税率の引き下げが決まったことで、米経済が一気にスタグフレーションに陥るとの懸念が一掃された。これは極めて好ましいニュースだ。投資家が可能だと考えていた以上の内容である。今回の合意で米中とも基準税率を10%に引き下げ、さらに米国は対中追加関税を30%に引き下げる(訳者注:共同声明によると、米国は中国に対して125%まで引き上げた相互関税率を廃止し、当初の34%に戻すと報じられている)。ただし米国は合成麻薬フェンタニルへの対策強化を促すため、20%の関税は維持する。だが、より好ましいのは、そしてS&P500種指数が3.3%高と急反発(金価格は3.1%下落)した理由は、スコット・ベッセント米財務長官が通商政策を主導しているように見えることだった。簡単に言えば、大人がその場にいるということだ。
12日に状況は一変したのだ。ドルは上昇し、金は急落した。これは米国への信頼回復の表れだ。S&P500種は現在トランプ氏が「相互」関税で投資家を仰天させた4月2日の「解放の日」以前と同じ量の金を購入できるまでの価値に戻った。だが期待しすぎないほうがよい。関税がトランプ政権以前の水準に戻る可能性は低い。トランプ氏は就任後まもなくメキシコとカナダに関税を課し、その後撤回した際、自身の成果を誇示した。ベッセント氏は、中国をはじめ他国から譲歩を引き出す手段として関税を支持しているが、トランプ氏のように目先の成果を望んでいるわけではない。ベッセント氏の狙いは中国経済の抜本的な改革だ。中国を重商主義的な輸出国から消費国に転換させ、より均衡の取れた貿易を実現することだ。これは仮に中国共産党が同意したところで、控えめに言っても困難だ。だが、もし実現し、ドイツなど他の輸出志向国もそうなれば、貿易にとって最良の結果となる。米国の貿易赤字が輸入減ではなく輸出増によって縮小するからだ。
しかし、中国は国内総生産(GDP)に占める消費の割合を高めることにかねて言及してきたものの進展はほぼない。ドイツは個人消費促進策をあまり講じていないが、フリードリヒ・メルツ新首相は軍事とインフラへの政府支出を増やす方針で、これは早期に効果が出るはずだ。両国の恒常的な貿易黒字が解消されれば、米国の恒常的な貿易赤字も解消されるか、少なくとも赤字が縮小するかもしれない。一方で、外国人が消費を増やせば米国に回す貯蓄分が減るため米国人は直接か、または財政赤字縮小を通じて貯蓄を増やす必要が出てくる。
トランプ氏をはじめ米政権が関税を推進する理由はさまさまだ。米国の軍事力やドルの基軸通貨としての地位という世界的な公共財を提供している対価を得ることや、所得減税の財源確保などが挙げられる。議会には、戦略上の競争相手である中国の発展を抑制するために関税を使うべきとの声もある。少なくともトランプ氏が自称タリフマン(関税男)というだけの理由で関税を課すのではなく、外国市場を開放させるためであれば、市場にとってはるかに好ましい。投資家はベッセント氏がかじ取り役を担い続けてくれるよう祈るべきだ。
注1:トランプ関税に関して4月3日付ジェトロ(日本貿易振興機構)は次のように報じる。「米国のドナルド・トランプ大統領は4月2日、「相互関税による輸入制限により、米国の巨額かつ恒常的な財貿易赤字に寄与する貿易慣行を是正する」と題する大統領令を発表した。また同日、ファクトシートも公開した。
大統領令では、米国と貿易相手国との2国間貿易関係における互恵性の欠如や、米国とは著しく異なる関税率・非関税障壁などが米国の巨大かつ長期にわたる貿易赤字額の要因になっており、米国の国家安全保障と経済にとって異常かつ特別な脅威だとして、国家緊急事態を宣言するとした。また「米国第一の通商政策」に基づく調査(2025年1月22日記事参照)や、相互関税導入に向けた調査(2025年2月14日記事参照)の結果を4月1日に受け取ったとして、国際緊急経済権限法(IEEPA)に基づき、次の措置を講ずると発表した。
〇米国東部時間4月5日午前0時1分から、全ての国から輸入される全ての品目に10%の追加関税を課す。
〇米国東部時間4月9日午前0時1分から、米国の貿易赤字額が大きい国に対しては、関税率を引き上げて「相互関税」を課す。相互関税は57 の国・地域ごとに個別に設定しており、例えば、中国に対しては34%、EUは20%、日本は24%などとなっている(これらの国以外は、10%のベースライン関税が適用)。
米国のドナルド・トランプ大統領は4月2日、「相互関税による輸入制限により、米国の巨額かつ恒常的な財貿易赤字に寄与する貿易慣行を是正する」と題する大統領令を発表した。また同日、ファクトシートも公開した。
大統領令では、米国と貿易相手国との2国間貿易関係における互恵性の欠如や、米国とは著しく異なる関税率・非関税障壁などが米国の巨大かつ長期にわたる貿易赤字額の要因になっており、米国の国家安全保障と経済にとって異常かつ特別な脅威だとして、国家緊急事態を宣言するとした。また「米国第一の通商政策」に基づく調査(2025年1月22日記事参照)や、相互関税導入に向けた調査(2025年2月14日記事参照)の結果を4月1日に受け取ったとして、国際緊急経済権限法(IEEPA)に基づき、次の措置を講ずると発表した。
〇米国東部時間4月5日午前0時1分から、全ての国から輸入される全ての品目に10%の追加関税を課す。
〇米国東部時間4月9日午前0時1分から、米国の貿易赤字額が大きい国に対しては、関税率を引き上げて「相互関税」を課す。相互関税は57 の国・地域ごとに個別に設定しており、例えば、中国に対しては34%、EUは20%、日本は24%などとなっている(これらの国以外は、10%のベースライン関税が適用)。」
注2:英国との合意に関して5月9日付付ジェトロ(日本貿易振興機構)は以下のように報じる。
「商務省、ホワイトハウス、米国通商代表部(USTR)の発表によると、主な合意内容は次のとおり。
米国の英国市場アクセスを拡大し、50億ドルの英国への輸出機会を創出する。これには米国のエタノール、牛肉、果物、野菜、飼料、たばこ、貝類、化学品、繊維製品などが含まれる。
米国の英国に対する10%のベースライン関税は維持する。
1962年通商拡大法232条に基づく自動車への25%の追加関税(2025年4月3日記事参照)に関して、代替措置を設け、英国自動車メーカーの米国向け自動車輸出に対して、年間10万台まで10%、10万台を超える分は25%の関税を適用する。
232条に基づく鉄鋼・アルミニウムへの25%の追加関税(2025年4月7日記事参照)に関して、代替措置を交渉する。また、鉄鋼・アルミニウムの貿易に関する連合(Trading Union)を創設する。」
注3:中国との合意に関して同じくジェトロは以下のように報じる。
「米国のトランプ政権は5月12日、米国と中国の経済と貿易に関する会談の共同声明を発表した。米国が中国に課している125%に達した相互関税率を引き下げ、他国・地域と同様の10%のベースライン関税を適用する。中国側も同様の措置をとる。今後は、協議継続のための枠組みを設置する。なお、トランプ政権は今回の関税引き下げに関する大統領令も公表した。
共同声明によると、中国に対して125%まで引き上げた相互関税率(2025年4月11日記事参照)を廃止し、当初の34%に戻す。その上で、24%の執行を90日間停止し、ベースライン関税の10%を適用する。ただし、1974年通商法301条に基づく中国原産品への7.5~100%の追加関税や、国際緊急経済権限法(IEEPA)に基づくフェンタニルの流入防止を目的とした中国原産品に対する20%の追加関税(2025年3月4日記事参照)、1962年通商拡大法232条に基づく鉄鋼・アルミニウム製品(2025年2月17日記事、2025年3月12日記事、2025年3月17日記事参照)や自動車・同部品に対する25%の追加関税(2025年4月3日記事参照)などは維持する。
これに対し、中国も米国と同水準の追加関税率とする。中国は、米国原産品への125%の追加関税率を当初の34%に戻した上で(2025年4月14日記事参照)、24%の執行を90日間停止し、追加関税率を10%とする。加えて、4月2日以降に米国に対して講じた非関税措置を停止、または廃止するために必要な行政措置を講じる。米国通商専門誌「インサイドUSトレード」(5月12日)によれば、これには、レアアースの輸出管理や(2025年4月7日記事参照)、米国企業に対する制裁(2025年4月9日記事参照)などが含まれるようだ。
両国は、これらの措置を5月14日までに実施する。その後、経済・貿易協議を継続するためのメカニズムを設立する。この協議の米国側の代表はスコット・ベッセント財務長官およびジェミソン・グリア通商代表部(USTR)代表で、中国側は何立峰副首相が代表を務める。今回の協議では、フェンタニルの流入防止を目的とした中国原産品に対する20%の追加関税は維持されたが、ホワイトハウスの声明によると、ベッセント氏は「私にとってうれしい驚きだったのは、米国でのフェンタニル危機に対する、中国の関与のレベルの高さだった」とし、グリア氏は「フェンタニル問題について建設的に協力することで合意し、前向きな進展が見られた」と述べている。
また、今回の協議の結果、適用されることになった10%のベースライン関税について、トランプ政権が発表したファクトシートでは、米国内生産を促進し、サプライチェーンを強化し、米国の通商政策が米国人労働者を最優先に支援するもの、と述べている。複数ある関税措置の中でも、ベースライン関税は、米国への製造業回帰を目的にしているとの指摘がある。ベッセント氏は政権発足から100日に合わせた声明で、関税、減税、規制緩和は経済成長と米国内製造業の活性化を推進するために相互に連携した政策だと述べている(2025年5月1日記事参照)。」
結び:米英、米中の合意について、それぞれ以下3つの観点から論評してみたい。
第1は合意の内容と意義について、第2に合意で目指した目標、そして第3に今後の参考となる箇所は何かである。まず英国との合意についてみていく。
第1の合意内容と意義については、英米合意は「概念的なもの」と評され、実際にどのように機能するかの詳細がほとんどなく、それを詰める必要があると指摘されている。これは協定が大枠を決めたものであることを示唆している。次いで、この協定によって共通関税の10%が世界基準として定着したとされているが、これは協定の実質的内容を示している。同時に、英国にとって悪い合意だったとも評されているが、それは世界にとって良い合意ではないことを意味していると言えよう。現に、今後の通商合意は、障壁がどれだけ下がるかではなく、どれだけ上がるかで判断され、他国はより悪い結果に終わるだろうと予測されている。また、協定は米輸出に50億ドルの経済的機会をもたらすが、米経済へのプラス効果は限られ、今年後半に米経済が景気後退に陥るとの予測は変わらないとされている。米英合意は世界共通基準として10%の関税率を定着させ、そして関税はコスト上昇と効率性低下を招き、誰もが損失を被り勝者はいないことを改めて確認したことが意義として大きいと言えよう。
第2に合意で目指した目標については、英国は勝利ではなく、損失を最小限に抑えることを目指したとメディアは指摘する。その意味では、10%の関税と鉄鋼や自動車、医薬品に対する分野別関税の一部適用除外も獲得したこと、さらに他の国々がより高い関税を課されることになれば、英国の市場シェア低下が抑えられることも考慮し、英国としては満足すべき結果となったと言えよう。
第3に、米英合意で今後の参考となる箇所、あるいは留意すべき点は何か。1つ目は10%が関税率として基準となり、各国は最低でも10%の関税からまぬがれなくなったことが挙げられよう。2つ目に自動車、ジェットエンジン、航空機部品など特定の英国輸出品が高い関税を免れるか、税率引き下げの対象となったことである。自動車は年間10万台までではあるが、追加関税の対象外となった。そうした妥結策は日本にとって一つの参考になるかもしれない。3つ目に交渉に当たり英国には、米国のウクライナ支援を継続させる意図があったとメディアは指摘する。これは米英通商交渉において広く他の戦略的利益を考慮する可能性があったことを示唆している。脅威を増す中国と対峙する日本を含むアジア諸国、特に東南アジア諸国も今後、こうした戦略的利益を対米通商交渉に織り込ませていく余地が出てきたと考えられる。
次に米中合意についてみていく。第1の米中合意の内容と意義については、米中は関税率を互いに90日間10%に引き下げることで合意した。具体的には、米国は中国に対する関税率を145%から30%に引き下げ、この30%には違法薬物フェンタニルの流入に絡む20%の関税が含まれるのでこれを除くと10%になる。中国も同じく125%から10%に引き下げ、さらに希土類鉱物の販売制限など、その他の報復措置を撤回する。また両国は今後90日間、さらに相違の解消を図るために協議を継続することになった。
この合意についてメディアは、米国は中国に奇妙なほど有利な関税合意を許容した、あるいは、ほぼ完全な米国の後退を意味し、習近平の強制的な報復措置を正当化した、などと評する。すなわち、関税はトランプ氏再任時よりも高くなったものの、中国が長期の貿易戦争も辞さない姿勢を示していた頃に予想されていたよりもはるかに低くなった。中国は今後90日間、アメリカに公然と反抗した唯一の国であるにもかかわらず、他国と同様、10% の相互関税が課されるだけとなったのである。確かに、唯一の反抗国、中国が期限付きとはいえ恭順の姿勢を示した他国と同等の条件を得たのは、奇妙なことである。その理由としてメディアは会場のリラックスした雰囲気を挙げるが、勿論、それは付随的な要因でしかありえない。真因はメディアが指摘するように対中関税があまりに高率で手に負えなくなったことにあると言えよう。米企業は、中国工場の閉鎖を余儀なくされ、一部の米国輸入業者は破綻の危機に瀕した。両国間の貿易はほぼ停止し、誰も望んでいなかった「禁輸措置と同等の状況」に陥ったのである。また中国による重要鉱物資源の輸出制限が米企業に与えた影響も無視できないだろう。
第2に、米中は合意によって何を目指したのか。この問題は、90日間の猶予期間終了後に何が起きるか、という設問への答えにもなるだろう。米中は手に負えなくなった高率関税をとにかく収束させたかったのである。「取引の芸術」を標榜するトランプ大統領の手法は中国には通じず、中国を交渉の席に着かせるのが精いっぱいで、むしろ、習主席の報復戦略を正当化してしまったのだ。しかも、中国に残る30%の関税は依然として米国にとって相当な負担となり、米消費者の購買意欲とその購買習慣に依存する米企業の意欲を損なっているのである。
今後の方向性は、ベッセント財務長官が記者会見で述べた「我々は、共通の利益があるとの結論に達した」とのコメント、換言すれば、両国が共にデカップリングを望まないという心情が、どこまで米中間で徹底されていくかにかかっていると思われる。米国は、着地点として関税率34% を既定値として考えているようだが、中国はこれを免れるか、軽減させるために石油や大豆などを米国からさらに購入し、またフェンタニル原料製造企業を厳しく取り締まることなどにより、スイス休戦をより永続的な停戦につなげようと試みると思われる。ここで改めて注目されるのは、中国が第1期トランプ政権と結んだ 2020 年の貿易協定である。中国は大規模な米製品の購入に合意したが、履行されていなと報じられており、2020年協定が今後の交渉の「出発点」となる可能性が強いとみられる。
第3に米中合意で留意すべき点については、第1点として、米中合意が期限を区切って関税引き下げに合意するという特異な形をとったことを挙げたい。前途に不確実性を残したが、とりあえず方向性を打ち出し、最終合意に向けた一歩を踏み出させる漸進的効果があったと言え、今後の交渉モデルの一つになり得ると考えられる。ただし、例えば米国企業に重くのしかかる長期的な不確実性を緩和する効果は少ないと指摘されているように効力に限界があることは否定できない。第2点は、その期間を3カ月、すなわち90日に設定したことである。これも今後の各国との条件交渉に影響すると思われる。ただし、90日間は十分でないという声が米企業から上がっていることに注目したい。中国からの出荷の再開を考える企業にとって短すぎ、海洋輸送船のスペース確保や製品輸送に要する時間を考えると十分でないというのである。米中間で未解決の重要案件、特に対米貿易黒字の増大や中国企業の過剰製造能力、過大補助金問題などで実質的な進展を遂げるためにも十分でないことは確かであろう。ただし90日間が短いのは、問題の多い中国を対象にしているためと言えるかもしれない。換言すれば、そうでない諸国は90日間の猶予を認められない可能性があると言えよう。第3点は、今後の交渉で米国は、中国市場の米国企業への開放に焦点を当て、特に「非関税」貿易障壁の緩和を目指しているとされる。そのために中国と定期的交渉のペース設定に合意したと報じられている。こうした定期交渉の枠組み設定も参考とすべきであろう。
以上を要すれば、米英交渉では、対米貿易赤字を抱える英国は高水準の相互関税を免れたが、世界共通基準として10%の関税率を定着させてしまった。しかも詳細をさらに煮詰める必要性が指摘されている。ただし交渉を通じて関税競争には勝者はいないことを改めて確認し、脅威を増す中国と対峙する日本や東南アジア諸国に対中戦略上の考慮を対米交渉で生かす余地を生み出した。他方、米中交渉では、高率の対中関税が米国企業にとって耐え難いものとなり、トランプ流の攻撃的政策の限界が露呈した。中国は米国に公然と反抗した唯一の国にもかかわらず、他国と同様の相互関税10%が課されることになった。ただし、これには猶予期間として協議のための90日間が設けられ、この間に2020年貿易協定の履行を迫られる状況となり、巨額の対米貿易黒字を抱えていることから、最低でも34%の相互関税を免れそうもない立場に置かれた。また合意成立後間もない現時点で、米国が早くも合意違反の非難の声を上げていると報じられている。英中との合意には今後の対米交渉を進めるうえで参考となる部分もあるが、特に中国との合意が最終的決着をみるまでは前途多難で予断を許さない。
§ § § § § § § § § §
(主要トピックス)
2025年
5月16日 韓国の安徳根(アン・ドクグン)産業通商資源相、アジア太平洋経済協力会議(APEC)で訪韓中のグリア米通商代表部(USTR)代表と協議。
ベトナムのファム・ミン・チン首相、首都ハノイでタイのペートンタン首相と会談。外交関係を「包括的戦略パートナーシップ」(CSP)に引き上げることで合意。
19日 インドネシアのプラボウォ大統領、タイを訪問、ペートンタン首相と会談。外交関係を「戦略的パートナーシップ」に引き上げ、経済協力を深めることで合意。
20日 中国人民銀行(中央銀行)、期間1年と、同5年超の最優遇貸出金利(LPR、
ローンプライムレート)を7カ月ぶりに0.1%引き下げ。米中貿易摩擦で高まる
景気減速への懸念に対応。
21日 シンガポールのローレンス・ウォン首相、閣改造を発表。総選挙での与党・ 人民行動党(PAP)の勝利を受け、閣僚メンバーを刷新。
インドネシア中央銀行、政策金利(7日物リバースレポ金利)を0.25%引き下げ、5.5%へ。
23日 トランプ米大統領、日本製鉄による米鉄鋼大手USスチールの買収を
パートナーシップと表現し承認の姿勢を示唆。
26日 東南アジア諸国連合(ASEAN)、マレーシアで首脳会議を開催。
28日 インドネシアのプラボウォ大統領、同国を訪問したフランスのマクロン大統領と会
談。防衛協力拡大で合意。
岩屋毅外相、都内でマナロ比外相と会談。防衛装備品などの無償支援する「政府安全保障能力強化支援(OSA)」を通じた協力推進で合意。
30日 アジア安全保障会議(シャングリラ会合)がシンガポールで開幕。英シ
ンクタンクの国際戦略研究所(IISS)が主催、日本の中谷元防衛相、ヘグ
セス米国防長官が参加。
6月 3日 ベトナム国会、人口条例改正案を可決。1組の夫婦が産める子どもの数を
2人までとしてきた「二人っ子政策」を撤廃。
韓国大統領選、 投開票。李在明氏が当選。
5日 中国広東省広州市警察、台湾国防部(国防省)傘下のサイバーセキュリティー部
門が科学技術関連会社にサイバー攻撃を行ったと非難。
北朝鮮の朝鮮中央通信と朝鮮労働党機関紙の「労働新聞」、韓国大統領選で李在明大統領の当選を簡単に初報道。
6日 トランプ米大統領、中国の習近平主席と電話協議後、中国が米国へのレアアース
(希土類)の輸出再開に同意したと表明。
インド準備銀行(中央銀行)、政策金利(レポ金利)を6%から5.5%に引き下げると決
定。利下げは3会合連続。
9日 米中両代表、2回目となる閣僚級の貿易協議をロンドンで開催。
11日 米中代表、第2回貿易協議で暫定合意に達したと発表。
13日 トランプ米大統領、日本製鉄によるUSスチール買収計画の中止命令を事実上
撤回する大統領令に署名。
14日 中国の王毅(ワン・イー)共産党政治局員兼外相、イラン、イスラエルの外相と電話協議。両国の攻撃応酬について仲介役の意欲表明。
主要資料は以下の通りで、原則、電子版を使用しています。(カッコ内は邦文名) THE WALL STREET JOURNAL (ウォール・ストリート・ジャーナル)、THE FINANCIAL TIMES (フィナンシャル・タイムズ)、THE NEWYORK TIMES (ニューヨーク・タイムズ)、THE LOS ANGELES TIMES (ロサンゼルス・タイムズ)、THE WASHINGTON POST (ワシントン・ポスト)、THE GUARDIAN (ガーディアン)、BLOOMBERG・BUSINESSWEEK (ブルームバーグ・ビジネスウィイーク)、TIME (タイム)、THE ECONOMIST (エコノミスト)、REUTER (ロイター通信)など。なお、韓国聯合ニュースや中国人民日報の日本語版なども参考資料として参照し、各国統計数値など一部資料は本邦紙も利用。
バベル翻訳専門職大学院 国際金融翻訳(英日)講座 教授 前田高昭
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