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重訳(トルコ語から英語、英語から日本語への翻訳)の功罪        『イスタンブル、イスタンブル』(最所篤子訳)を読んで覚えた違和感の正体              第1

知求図書館8月7日号WEB雑誌「今月の知恵」コラム

はじめに

私は、ふだん翻訳小説を読みません。というよりも、読めなくなったという方が正しいかと思います。実務翻訳を職業として以来、翻訳小説を読むと小説のプロットよりも表現の方が気になってしまい、読書を心から楽しめなくなってしまったのです。近年、トルコ人作家が執筆した小説が日本語に翻訳されて日本の書店に並ぶようになりましたが、トルコの小説は上記の理由に加えて、政治、宗教、民族などの要素が複雑に絡み合い、手にとってパラパラとめくるだけでどうしても購入して読もうという気にはなれませんでした。

ところが昨年の夏、トルコ人作家が執筆した小説の英語翻訳版が日本語に翻訳されるという記事をウェブサイトで読んで興味を持ちました。その理由は、第一に、この小説の英訳版が優れた翻訳に与えられるEBRD(欧州復興開発銀行)文学賞を2018年に受賞したこと、第二に、イスタンブルにある監獄の狭い独房に閉じ込められている政治犯とされる4人が、拷問の肉体的、精神的恐怖から免れるために、拷問を待つ間に想像力を駆使して物語を語り合うというプロットに惹かれたことにあります。それに、日本ではこれまで特定のトルコ人作家の作品ばかり翻訳されていましたが、英米文芸翻訳家が英語版を日本語に翻訳するようになれば、日本でのトルコ文学の窓口も広がるのではないかという期待もありました。

ウェブサイトの記事を読んだ時点では日本語版がまだ発売されていなかったため、とりあえずトルコ語版のペーパーバックを購入し、日本語版の発売日を待っていたのですが、そのことをすっかり忘れていました。先月書棚を整理したときにトルコ語版を見つけ、日本語版と英語版の電子書籍を購入したのが、以下の小説です。

日本語版:

『イスタンブル、イスタンブル』最所篤子訳(小学館、初版2023年9月、電子書籍版)

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%80%81%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%82%BA/dp/4093567395

英語翻訳版:Istanbul Istanbul  : Translated by Ümit Fussein

(電子書籍版、初版2016年5月)

https://www.amazon.com/Istanbul-Burhan-S%C3%B6nmez/dp/1682190382

トルコ語原書:İstabul İstanbul by Burhan Sönmez

(ペーパーバック版、初版2015年3月)

https://www.amazon.com.tr/%C4%B0stanbul-Burhan-S%C3%B6nmez/dp/9750517164

ここで登場人物である、イスタンブルの地下牢に閉じ込められている4人の身の上を紹介します。

・本名ではなく「ドクター」と呼ばれる温厚な人物は文字通り医者で、トルコ最難関の医学部を卒業して医者になり、息子も同じ大学の医学部の学生です。妻を数年前に癌で亡くし、そのうえ息子も最終学年で革命グループに加わってしまい、喪失感に苛まれますが、重病で入院した息子の身代わりにグループの連絡係を引き受けて当局に逮捕されてしまいます。

・気難しい床屋のカモは、教師で詩人だった父親が、カモが生まれる前にイスタンブルから出奔した後、山奥の村で人生に絶望して井戸に飛び込んで自殺し、母親も幼少の頃イスタンブルの自宅の庭にある井戸で足を滑らせて死にます。孤児院付属の学校に通った後、父のように詩人になりたいと大学でフランス文学と詩を専攻しますが、経済的事情から床屋になり、店で知り合った妻と幸せな結婚生活を送っていました。ある日家出して革命グループに加わった妻を偶然発見し、後をつけて彼女の身の安全を気遣ううち、当局に目を付けられて逮捕されてしまいます。

・学生のデミルタイはイスタンブルの貧民街で育ちます。母親が息子には良い暮らしをさせたいと身を粉にして働いているにもかかわらず、一向に暮らし向きが良くならないことに疑問を抱いて革命グループに加わり、グループのメンバーとの待ち合わせ場所で逮捕されてしまいます。

・職業不詳のキュヘイラン爺は山奥の村の生まれで、時々イスタンブルに仕事に行く父親からイスタンブルの話を聞いて育ちます。一度も行ったことのないイスタンブルについて詳しすぎるという理由で当局に通報されて逮捕されてしまい、イスタンブルに護送されて、地下牢に放り込まれます。

4人は、拷問の痛みに耐えかねて互いの身の上について口を滑らせないように、地下牢内では身の上話をしないことに決めていました。読者はそれぞれの人物のモノローグにより生い立ちを知りますが、登場人物は互いについて何も知らないという不思議な世界が生まれます。代わりに卑猥な話、おとぎ話、事実とも空想ともわからない過去や未来の話を語り合い、架空の酒の席を設けて、裁判もされずに拷問を待つだけの現実を忘れようとします。

原作者のソンメズ氏は、トルコ語で行われたいくつかのインタビューで「小説の最初の1ページを書き上げるのに1年から1年半要し、週に4~5日、8~10時間執筆しても半ページから1ページしか書けない」と語っているように、物語を綿密に構築する作家で、言葉の選び方や小説の構成、キャラクターに細心の注意を払っています。登場人物を通して語られる作者のイスタンブルへの愛、作者の哲学とも言えるフレーズが入れ子のように、万華鏡のように絡み合って非常に濃密な世界を作り上げており、翻訳版でもその魅力が十分に伝わってきます。

それでも、ページをめくるうちに私の中に少しずつ蓄積されていったある違和感が、読み終わった頃には確信に変わりました。その違和感とは、ある単語がトルコ語で意図された通りに英訳されていないことで、トルコ語版を読んだ読者が思い描く小説の世界観と、英語版/日本語版を読んだ読者が思い描く小説の世界観にかなりのズレが生じていることです。

その他にも、訳語の定義の曖昧さによって生じる原作と翻訳の間の齟齬、原作者がイスタンブルを彩るために用いた小道具の不正確な翻訳、地名や人名の不正確な表記など、重訳によって生じた齟齬の正体について原因を探り、重訳の功罪について考察したいと思います。

ちなみに、今回は日本語訳を読んで疑問に思った箇所を英語版とトルコ語の原書で確認する形を取っており、一文ごとに突き合わせて読んだわけではありません。日本語版は2回、英語版とトルコ語の原作は1回ずつ通読しました。また、ウェブサイト上でトルコ語で発表されている文芸評論家による書評、およびトルコ語の原作、英語版、日本語版の読者によるレビューはできる限り目を通しました。


ハクセヴェルひろ子

実務翻訳者                                             バベル翻訳専門職大学院修了                                      トルコ在住32年(そのうち、イスタンブルに8年8か月在住)

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