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2024年3月22日 第336号 World News Insight (Alumni編集室改め)                      「あなたは、自分の子供を守るために、剣をもって襲ってくる敵に立ち向かう勇気がありますか」                                 バベル翻訳専門職大学院 副学長 堀田都茂樹

歴史を振り返ると、戦争があったり、災害があったり、様々な〝死〟がありますが、日本人とヨーロッパ人では、その受け入れ方に違いがあると言います。国土学の権威、大石久和氏は言います。

  日本では多くの犠牲者が出るのは、大地震、大洪水、大津波、大高潮など、自然災害によるものです。我々こうして多くの同胞を失う。これに対して、ユーラシア諸国、ヨーロッパや中国では、自然災害よりもはるかに多くの人々が紛争(戦争)で亡くなっています。自然災害で家族(愛する者)の命が奪われたとき、恨むべき相手はどこにも存在しません。

 これに対し、ヨーロッパや中国では、敵に家族(愛する者)の命を奪われるという死なので、そこには殺した相手が必ず存在します。ですから、相手を恨んで恨んで恨み抜き、やがて復讐の誓いを立てることによって、その死を受け入れてきたというわけです。われわれ日本人とユーラシア人の考え方の違いは、こうした民族の歴史、経験の違いに由来しています。

  すなわち、恨む相手が、自然か、外敵かで考え方が違ってくるわけです。ヨーロッパや中国では、敵から攻めてこられないように都市を城壁で囲みました。日本はそういう必要がありませんでした。その考え方の違いは今もわれわれの生活に残っていて、日本の家のドアは外開き、ヨーロッパのドアは内開きです。内開きのドアの方が内側にものを置くなどしてして防御しやすいのです。このように日本では『自然災害死史観』が、ヨーロッパ・中国では『紛争死史観』が生まれました。

  更に、紛争でどのぐらいの人間が死んだのか、ということを調べてみると、日本の場合、例えば、島原の乱で、関ヶ原の戦い、川中島の戦いで数百人、せいぜい数万人、大東和戦争の東京大空襲で10万人、そのあと、広島、長崎に原爆投下、とは言いながら、死者数を調べてもはっきりした数字が出てきません。死者数に注目する歴史家がいません。

  しかし、世界ではどうかというと、太平天国の乱では5,000万人、フランス革命で200万人、独ソ戦でウクライナで亡くなった方は600万人。アメリカ人の歴史研究家、マシュー・ホワイト氏が、『殺戮の世界史 人類が犯した100の大罪』(早川書房)という画期的な本を出していますが、この本では、人類が行った世界中の殺戮行為と、その死者数が調べ上げられています、すなわち、ヨーロッパ人・中国人が、如何に「紛争による大量虐殺・殲滅戦」を経験してきたかが示されています。日本はこの本では取り上げられてもいません。

  日本では殺戮に重きを置かなかったせいか、大虐殺を表す単語が、殺人、殺戮、虐殺くらいしかありません。一方、大虐殺を表す英語は、ジェノサイド(genocide)、ホロコースト(holocaust)、ホミサイド(homicide)、カーネイジ(carnage)、スローター(slaughter)、マサカー(massacre)、ブッチャー(butcher)、エクスターミネイト(exterminate)など、他にもいくつもあり、それぞれ虐殺の意味が違います。

  あのフランス革命では200万人の犠牲者が出ています。自由・平等・博愛を目指したフランス人が200万人もの人々を殺しています。当時はギロチンで処刑し、その日は屋台が出てお祭り騒ぎだったそうです。これほどまでの犠牲を出し、いかなる殺戮を犯してでも、彼らには求めなければならない正義があると考えています。

  そのあたりの正義は、なかなか日本人には理解できないところです。

  人類皆兄弟…、同じ人間だから話し合えば分かるという世界ばかりではなく、日本人には理解できない世界もあります。紛争死を経験してきたヨーロッパ人は、次の戦いで勝利するための方法や準備を極めて合理的に考え出してきました。一方、自然災害死を常とする日本人は、自然災害が起こってからしか物事を考えることができない…。こうして、ヨーロッパ人は『合理思考』の民族になり、日本人は『情緒思考』の民族になったのだと言います。

  この辺を、大石氏の大陸型紛争死史観 VS 日本型災害死史観で整理しますと、

都市建設  城郭都市VS城下町

家屋の扉  内開きVS外開き*内開きでは内側に防御のための荷物を置ける

大量死の理由 紛争(人間)VS 災害(自然)

災厄の予兆  有り     VS  無し

災厄の期間  長期     VS  短期

災厄の発生後 紛争の継続 VS  復旧、復興

災厄への対処 事前の備え VS   諦観*あきらめ

  こうして考えると、この日本を悪意を持った周辺国からどう守るか、いやな言葉ですが、かれらの今でも進行中のEthinic Cleansing(民族浄化)からどう守るか、悲観的にならざるを得ないです。こうした、何千年もかかって形成された日本人の国民性をどう転換するか、を我々は迫られています。

  自分の子供を守ろうとする親は、襲われた敵に対してどう子供を守るでしょうか。日本人にありがちな、背を向けて、子供をかばっても、親が殺された後に、子は確実に殺されます。日本人は剣をもって敵に立ち向かう勇気?があるのでしょうか。

  核武装の是非が問われる中、The Balance of PowerならぬThe Balance of Terrorを考えると非武装中立と‘お花畑’的に日本の防衛を考えていて良いのでしょうか。

台湾有事を考えたとき、当たり前に来る日本の米軍基地に対する核の脅威にどう対処すると言うのでしょう。米国が日米安全保障条約のもと、日本を守ってくれると未だに本気で思っているのでしょうか。現に、米国のブリンケン国務長官は、面と向かって中国の王基外相に指摘されているように、紛争地2か所(ウクライナ、イスラエル)に巨額の軍事費を投じている現状で日本周辺で台湾有事があっても支援する余裕がないのでは、それが現実です。

  せめて、核武装と言わずとも、核の共有を考える必要が現実にはあるのが、世界の一般常識です。その辺の危機意識を持たない日本民族は、南海トラフ、首都直下型地震の、それによって誘発される、東京ドーム2百数十個分のマグマを抱える富士山の噴火を待つまでもなく、滅びゆく民族となってしまうと考えても大げさではないのではないでしょうか。

  我々日本人は、生き延びるためにも、Metamorphosis、変身をしなければならない時代を迎えています。地震に対しても緊縮財政のもと、四の五の言って国土強靭化をまともに考えない政府は自死を選んでいると言って過言ではないでしょう。

  後世にこの素晴らしい日本を残すためには、我々は、いい加減に、目覚め、変身をしなくてはならない、と考えるのは私だけでしょうか!! 

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