引退した報道写真家・榊冬一の回顧写真集を編集するため、未整理の写真を見に訪れた編集者。そこで目にしたのは、場所も日付も記されず、裏に「17」とだけ書かれた一枚だった。事故、災害、極限の瞬間を撮り続けてきた男は、何を見てきたのか。そして、何を撮ろうとしているのか。写真を見るほどに、静かな違和感が輪郭を持ちはじめる。H. P. Lovecraft “The Picture in the House”を現代ホラー小説に核新訳しました。

その写真だけ、撮影場所が書かれていなかった。
日付もない。
裏に、鉛筆で小さく「17」とある。
私は数字を見てから、もう一度写真を表に返した。
男が道路に倒れている。
画面の右端に白線が入り、その向こうに低いガードレールが見える。男は片手を前へ伸ばしていた。助けを求めているようにも、何かを押し返そうとしているようにも見えた。
顔は写っていない。
左手に、古い黒い腕時計をしている。
「それ、いいだろう」
背後から声がした。
振り返ると、榊冬一が部屋の入口に立っていた。
七十八歳。
三十年以上、新聞社や雑誌の仕事で戦争、災害、事故現場を撮ってきた報道写真家である。
引退して十年近くたつ。
今回、出版社で彼の回顧写真集を出すことになり、私は未整理の写真を見るため、郊外の自宅を訪ねていた。
「いつの写真ですか」
榊は答えず、私の横まで来た。
大きな身体だった。年齢のわりに背筋が伸びている。
「人間というのはな」
写真を指先で軽く叩いた。
「危ないときに、いい顔をする」
私は写真をファイルへ戻した。
窓の外では、朝から降っていた雨が強くなっていた。
駅からタクシーで三十分ほどかかった。
住宅地を抜け、古い団地を過ぎ、さらに坂を上った先に榊の家はあった。
玄関に入ったとき、最初に感じたのは薬品の匂いだった。
古い写真館のような匂いだ。
「まだ暗室を使うから」
榊は言った。
撮影はデジタルになったが、昔のネガを焼くときには今でも印画紙を使うのだという。
居間の壁には、彼の代表作が何枚か掛けられていた。
洪水の中で子どもを抱いて歩く男。
爆撃で崩れた建物の前に立つ女。
高速道路の多重事故で、煙の向こうを救急隊員が走っている写真。
私はどれも知っていた。
「懐かしいか」
榊が言った。
「懐かしいというのとは違いますね」
「そうか」
少し考えてから、榊は言った。
「俺には懐かしい」
その横の棚に、一枚の写真立てがあった。
榊と、四十代くらいの男が並んでいる。二人ともカメラを首から下げていた。
「助手の方ですか」
「ああ。長くやってもらった」
「今回の写真集には?」
「いないよ」
「もう辞められた?」
「三年前にな」
榊はそれだけ言って、次の箱を開けた。
午前中は、コンタクトシートとネガを見た。
午後からは、榊が自分で選んだ未発表写真を確認した。
新聞や雑誌には強すぎるもの。
出来事そのものが分かりにくいもの。
撮った本人にしか意味が分からないもの。
そうした写真が何百枚もあった。
一冊だけ、他よりひどく傷んだ黒いファイルがあった。
表紙の角が白く擦れ、背の布が浮いている。
中には事故現場の写真ばかりが収められていた。
同じ写真が何度も焼かれている。
全景。
顔だけを大きくしたもの。
伸ばされた手だけを切り取ったもの。
「ずいぶん見返しているんですね」
榊は一枚を手に取った。
「撮ったときより、あとで分かることがある」
「何がですか」
「どこがよかったか」
そう言って、写真を戻した。
別の一枚には、事故車の運転席が正面から写っていた。
「これは使えませんね」
私が言うと、榊は不満そうな顔をした。
「なぜだ」
「回顧集の流れに合いません」
「顔が見えるからか」
「それもあります」
「死んでるから?」
私は答えなかった。
榊は写真を見ながら言った。
「死んだあとじゃ遅いんだ」
「何がですか」
「写真だよ」
彼は写真を机に置いた。
「その前がいい」
それ以上は言わなかった。
夕方になっても雨はやまなかった。
道路で倒木があり、バスが止まっていると榊が教えてくれた。
タクシー会社へ電話しても、すぐには車を出せないという。
「地下にもある」
榊が言った。
「せっかく来たんだ。見ていけばいい」
翌週また来るよりはいい。
そう考えて、私はうなずいた。
地下へ降りる階段は狭かった。

(以下略)

全文はこちら⇒https://note.com/kumazo55/n/n4807d4e9ce0d


創作者名(ペンネーム)芹井磐徹
原典情報

 “The Picture in the House” / H. P. Lovecraft
https://www.gutenberg.org/cache/epub/79405/pg79405-images.html

ジャンル:西洋文学

原典引用

Searchers after horror haunt strange, far places. For them are the catacombs of Ptolemais, and the carven mausolea of the nightmare countries. They climb to the moonlit towers of ruined Rhine castles, and falter down black cobwebbed steps beneath the scattered stones of forgotten cities in Asia. The haunted wood and the desolate mountain are their shrines, and they linger around the sinister monoliths on uninhabited islands. But the true epicure in the terrible, to whom a new thrill of unutterable ghastliness is the chief end and justification of existence, esteems most of all the ancient, lonely farmhouses of backwoods New England; for there the dark elements of strength, solitude, grotesqueness and ignorance combine to form the perfection of the hideous.
Most horrible of all sights are the little unpainted wooden houses remote from traveled ways, usually squatted upon some damp, grassy slope or leaning against some gigantic outcropping rock. Two hundred years and more they have leaned or squatted there, while the vines have crawled and the trees have swelled and spread. They are almost hidden now in lawless luxuriances of green and guardian shrouds of shadow; but the small-paned windows still stare shockingly, as if blinking through a lethal stupor which wards off madness by dulling the memory of unutterable things.
In such houses have dwelt generations of strange people, whose like the world has never seen. Seized with a gloomy and fanatical belief which exiled them from their kind, their ancestors sought the wilderness for freedom. There the scions of a conquering race indeed flourished, free from the restrictions of their fellows, but cowered in an appalling slavery to the dismal phantasms of their own minds.

創作メモ

原典の核である「見ることが欲望を育て、やがて見る者を行為する者へ変えていく過程」を保持しました。食人図版への執着を、極限状態を撮り続ける報道写真家の執着へ置き換え、事故を待つ者が事故を作る者へ変わる恐怖として現代化しました。最後は「見る側」だった編集者自身が次の被写体となることで、原典の恐怖を反転させました。

トーン・文体:現代語調
語り手

語り手は、出版社に勤める五十代前後の編集者。榊冬一の回顧写真集を担当し、未発表写真の整理と選定のため自宅を訪れる。写真や報道への基本的な知識と職業倫理を持ち、感情を大きく表に出さない冷静な観察者。榊の言動と写真の異変を、読者とほぼ同じ速度で理解していく一人称語り手。

AI補助使用:使用した

・使用目的(構成案の整理、語調統一、時代背景の調整、創訳文体の校正)

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