翻訳の仕事中に、いわゆる和製外来語に該当する原語に出会うと一瞬、ほっとします。そのままカタカナで訳せばよいからです。しかし、油断禁物です。和製外来語は日本人のかなり勝手な解釈でカタカナ表記されている場合も多く、また全てが原語をそのままカタカナで表記されているわけでもないからです。ランドセルという言葉も、ネット検索すると、軍隊用の背のうを意味するオランダ語のランセルが和製外来語としてランドセルになったとあります。
ランドセルは、古くから日本の子供たちに親しまれてきました。小学校に入学するとき、ランドセルを背負って嬉しく思った人も多いと思います。私も初めてランドセルを買ってもらったときのことをよく覚えています。その日、母と早朝に列車に乗り込みデパートに向かいました。戦時下だった当時、途中で警戒警報が発令されて、列車は暫くトンネルで待機しました。トンネルに入った当初、車内は真っ暗で地獄の底に沈んだような恐ろしさを感じました。暫くすると列車は動き出しましたが、ノロノロ運転で予定の時間をかなり過ぎて、何とかデパートにたどり着きました。ランドセルは無事、手に入れたのですが、もう一つ楽しみがありました。お昼ごはんです。デパートのきれいな食堂で、おいしい白米の御飯が食べられる。そう期待してわくわくしていました。特別な日だったので、母も奮発してくれたようでした。やがて白米でてんこ盛りのはずのどんぶりが運ばれてきました。しかし、中身は蕎麦のようなものが短くお米のように切断された、似ても似つかぬ白米御飯でした。ランドセルときくと、今もあの時の失望感が蘇ってきます。
しかし、その昔なつかしいランドセルが空恐ろしい事件を引き起こします。中国の広東省深圳市で2024年9月18日、ランドセルを背負った日本人児童が刃物を持った男に襲われ幼い命を落としたのです。この日は1931年に満州事変の発端となった柳条湖事件が起き、中国では「国辱の日」とされています。満州事変はその後、日中戦争、さらに太平洋戦争へと拡大していきます。この日、犯人は日本人学校に通うランドセルを背負った児童に狙いを定めていたとみられています。事件に日本のみならず世界各国のメディアが注目しました。ロイター通信は早速、詳細を発信し、欧州でもフランスのルモンド紙までも英語版で、この事案は悪化する日中関係をさらに緊張させていると報じました。なおロイター通信は、同年6月に江蘇省蘇州市で日本人生徒が襲われ、母子を守ろうとした中国人の女性乗務員が殺害された事件にも言及していました。
深圳の事件では犯人はすぐに当局に拘束され、理由や背後関係などが一切公表されないまま、25年4月に死刑が執行されました。銃砲類の所持が厳しく規制されている中国では、刃物による犯罪が各地で頻発しており、今回の犯行は日本と関連があるのかどうかが不明なまま、いわば闇に葬られました。しかし、日本の児童に広く浸透しているランドセルが今回の事件の引き金を引いたのは間違いないようです。海外で活躍する日本人とその家族にとって太平洋戦争はまだ終わっていないのです。
前田 高昭
金融 翻訳 ジャーナリスト
バベル翻訳専門職大学院 国際金融翻訳(英日)講座 教授
現在、The Professional Translatorのコラムに『英文メディアを読む』と『東アジア・ニュースレター』を毎月寄稿。