意図した誤訳- 一語の誤訳が世界を変える

米国翻訳専門職大学院(USA)副学長 堀田都茂樹
原爆投下は、たった一語の誤訳が原因でした。

突き付けられたポツダム宣言に対し、熟慮の末に当時の鈴木貫太郎首相が会見で発した言葉は「黙殺」という言葉でした。日本側はこれを「ignore」と翻訳しましが、連合国側は?

鳥飼玖美子氏の著書『歴史を変えた誤訳』では、興味深く、且つ、恐ろしい「誤訳」の例が豊富に紹介されています。

これは当時の鈴木貫太郎首相のポツダム宣言に対する発言のことです。鈴木は「静観したい」と考えていたようですが、戦争を完遂したいという雰囲気の中、もっと強い言葉が必要だと考えました。それで「黙殺」という言葉を使ったようです。これを日本側は「ignore」と翻訳し、連合国側がそれを「reject」と解釈、翻訳したと言います。

もちろん、この微妙な意図した?誤訳がなくても、他の多くの理由があり原爆が落とされたのかもしれません。しかしそれでも、例え、数パーセントの確率でも、落とされない可能性があったとするならば、どんなに悔やんでも悔やみきれない誤訳でしょう。

He is the last person to do such a thing.

皆さんはこれをどう訳しますか。

彼はそんなことをやる最後の人だ。⇒彼はそんなことは絶対にしない人です。

しかし、岩波文庫から出版されたある本には、同じ構文のこんな誤訳がありました。

その本とは満洲国皇帝・溥儀の個人教師だったイギリス人、レジナルド・ジョンストン が書いた『紫禁城の黄昏』の日本語訳です。

本当は「皇帝が庇護をもとめる場合、世界中でこの人たちだけには 絶対頼りたくないのが蒋介石と張学良だった」と訳すべきところを、

岩波の本では 「皇帝がだれかに庇護をもとめるとすれば、世界中で一番最後に頼る人物が、蒋介石と張学良であることは、あらためていうまでもない」と訳していました。

「頼りたくない相手」というのを、「頼るベき相手」というまったく正反対の意味に翻訳していたのです。

上智大学名誉教授の故・渡部昇一氏は これについて以下のようにコメントしています。

『誤訳は誰にでもあることだから、それ自体は大したことではないだろう。
しかし、溥儀が、蒋介石と張学良を世界中で一番最後に頼る人物だと考えていたと翻訳するのは、このジョンストンの本の内容が まるで解っていなかった ということになる。(中略)こんなことはジョンストンの記述をそこまで読んでくれば、当然に解るはずなのだ。

訳者たちが正反対に誤訳したのが単なる語学力の欠如なら許せるが、読者を誘導する意図があったとしたら(歴史の削除のやり方からみて、その可能性がないとは限らない)許せない犯罪的行為であろう。』

意図した誤訳で世界を変えようとする意思が存在することを意識しつつ、翻訳者は等価交換すると言う翻訳者の職業倫理を全うする努力を続けたいと思います。